知ってて得するマナー集

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総数74件 1 2



左胸の辺りの男性は胸ポケット。 胸ポケットに挿すだけというものもありますのでそのほうが無難です。

女性は膨らみよりもう少し下にお付けする事が多いです。
安全ピンは、服地を傷めることが多く注意が必要です。
和服の女性には帯揚げに安全ピンで付けていただくか 帯に挿していただきます。



出来る限り「白黒」タイプをお薦めします。
喪主の方には、リボンバラの「大」サイズ以上を付けて頂き、来賓の最上位の方には、喪主と同等のサイズを。以降、順に「リボンバラ」の小さい物にしていくのが一般的です。

種類としましては、「喪主」と「来賓」には、リボンバラを。 その他、親族や関係者には、「旭光(きょっこう)」や「五方」を付けて頂くように致します
特に、会場の外の係や駐車場係の方には、参列者の方々への誘導係も兼ねておりますので、黒腕章や喪章だけではなく、五方などを付けて頂いた方が、より分かり易くなると思います。
尚、白黒タイプだけでは種類として足りない場合などには、「緑色」や「紺色」「紫」「水色」をご使用頂きましても、差し障りはございません。

昨今では、予算の関係であったり、使い回しが容易との点で、催事終了時に、受付にて回収をされている光景をよく見かけますが本来は、名誉職の方への、ご参列頂いた記念の品としてお持ち帰りいただくのが、正式な使用方法です


胸章に名入れをする場合、 敬称「様」をつけないといけないのではと不安を感じることが多いようですが、基本的には「不要」です。
あくまでも名札代わりとして使用いたしますので、自分に付けている名札に「様」などをつけることはありません。
肩書きにつきましても、最近は非常に長いものを見受けることが多くなりましたが、見る側に立って考えた場合、あまり長く書かれるよりは「どちらのどのような方」かが判る範囲で表記するのがベストでしょう。


日蓮                         清澄寺
日蓮宗は日蓮によって開かれました。
日蓮は12歳で天台宗の清澄寺に登り修行していましたが21歳の時に上洛、京都・大阪・奈良等を遊学して回りました。
そして比叡山にて勉学中に末法の世を救うのは「法華経」しかないと悟りました。
32歳で清澄寺に戻った日蓮は、日蓮宗を開宗しましたが「法華経」こそが唯一の教えと説いたため他宗の反感を買い、また、幕府の宗教政策の批判も行ったために伊豆・佐渡へと流罪を受けることに
なりました。
53歳で流罪を赦免され身延山にて布教をするも61歳で病により入滅されたそうです。
日蓮の没後は日昭・日郎・日興・日向・日頂・日持の六僧が中心となって布教を行っていましたが、日興が他の五僧と断絶し富士門流を興す事となる。
富士門流は1900年に日蓮宗からも独立し日蓮正宗となりました。

日蓮正宗
そのため、日昭・日郎・日向・日頂・日持ら五僧の門流が現在の日蓮宗となっています。

日蓮宗の教え
日蓮宗の教えを分かりやすく言えば、題目を唱えれば、即身成仏できるというものです。これを「唱題成仏」といいます。
題目とは『法華経』を表す『妙法蓮華経』に帰依を意味する「南無」をつけた南無妙法蓮華経」のことです。
天台宗に教えられる一念三千は、観法の修行によって体得しなければなりません。
お釈迦さまが亡くなってから1500年以上が経った末法の時代になると、そのような難解なことは、誰もできなくなります。
この天台宗の一念三千を「理の一念三千」と名づけ、 題目を唱えることを「事の一念三千」として、この事の一念三千によって、題目を唱えている人にお釈迦さまの功徳が自然に譲り与えられて成仏できるという教えです。
ただし、単に『妙法蓮華経』に帰依するだけでなく、妙法蓮華経の5字に、すでに果てしない過去に成仏されていたお釈迦さまの修行の功徳と、仏のさとりが備わっていると信じて帰依しなければなりません。
また、体も口も帰依が必要です。中でも特に信心を強調します。
そして題目を唱えれば、悪人でも成仏すると説き、即身成仏すれば、その人のいるところが常寂光土になると教えています。

独創的な日蓮宗
日蓮宗の極めて独創的なところは、教えの根拠が、お釈迦さまの説かれた一切経に存在しないことです。
仏教とは、お釈迦さまが35才で仏のさとりを開かれて、80才でお亡くなりになられるまでの45年間説かれた教えを仏教といいます。
ところがお釈迦さまの説かれたすべてのお経を一切経と言われ、その数は七千余巻といわれます。
それががあまりにも多いために、その理解の違いによって、仏教は色々な宗派に分かれています。
ですからもし仏教の宗派であれば、お釈迦さまの説かれた経典上に根拠がなければなりません。
ところが、お釈迦さまが「題目を唱えれば成仏できる」と説かれたお経は存在せず、それどころか「南無妙法蓮華経」さえも、 一切経に一回も出てこない言葉です。
やはりそれはさすがにまずいという自覚があるためか、「南無妙法蓮華経」という言葉は、『法華経』の寿量品という章の文章の底に秘められていると教えています。
つまり文章上にはどこにもありません。
「文底秘沈(もんていひちん)」などと言い出せば、 何でもありですから、 好きなことを言えるようになってしまいます。
「南無阿弥陀仏」であれば、一切経に何回も説かれているのですが、「南無妙法蓮華経」となると、一切経のどこを探しても存在しないということが日蓮自身も分かっているようです。
このように、日蓮宗の教義は、32才頃の日蓮が新しく考えたまったくの独創によるものです。

日蓮宗の教義
日蓮は、40才を過ぎると、 仏教のあらゆる宗派を否定するようになります。
これを四ヵ格言と言い、「念仏無間(ねんぶつむけん)禅天魔(ぜんてんま)真言亡国(しんごんぼうこく)律国賊(りつこくぞく)」の四つです。
「念仏無間」とは、浄土真宗や浄土宗で勧められる念仏は無間地獄に堕ちるたねまきだ。「禅天魔」とは、禅宗は天の魔物だ。「真言亡国」とは、真言宗は国を亡ぼす。「律国賊」とは、お釈迦さまの戒律を守る律宗は国賊だ、ということです。
これは単に、他の宗派をやめて『法華経』へ帰依するように勧めているのでしょうか?そうではありません。
50才を過ぎて、弘安元年に書いた「上野殿御返事」という手紙には日蓮宗の教学上、非常に重要で、日蓮宗の人なら多くの人が知っている言葉が書かれています。
それが「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」です。
余経も法華経もせんなしとは、法華経も、それ以外のお経も、 助からないということですから、法華経以外の宗派はもちろん、法華経も含めたすべての仏教の宗派を否定して、お釈迦さまの説かれたお経のどこにもない題目を勧めています。
ですから、日蓮宗のお経は、『法華経』のようでいて、『法華経』でもなく、一切経の中に拠り所となるお経は一つもありません。
このように、日蓮宗について知れば知るほど、 仏教から逸脱していることが分かります。
全仏教を否定していながら、仏教といえるのでしょうか?
日蓮宗と日蓮正宗の違い
日蓮宗の本尊は、一応『法華経』に説かれる本仏のお釈迦さまです。それを文字による曼荼羅で表現しています。
ところで日蓮は、もともと「私は上行菩薩の生まれ変わりである」と自分で言っています。
上行菩薩とは、本仏釈尊によって久遠最初に教えを受けて菩提心をおこさせられた、お釈迦さまの弟子です。
ところが日蓮宗の一派である「日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)」では、お釈迦さまではなく、日蓮が本仏だと主張しています。
「本仏」とは、根本の仏ということで、日蓮のほうが、お釈迦さまよりも偉いということです。
このようなことは、日蓮宗の中でも、日蓮正宗と、 日蓮正宗から破門されて分かれた創価学会が言うことです。そのことからこの2つは、日蓮を日蓮大聖人と呼んでいます。
ここまで行くと、なぜ仏教を名乗れるのでしょうか?
もちろんこのような日蓮宗の教えは、お釈迦さまの説かれていないことですから、今日まで題目を唱えて即身成仏できた人は一人もいません。
新興宗教の開祖で仏のさとりを開いたと主張する人は多くありますが、「釈迦の前に仏なし 釈迦の後に仏なし」といわれるように、 自他共に認める仏は、地球上でお釈迦さまただ一人です。
では、お釈迦さまの説かれた『法華経』には、本当はどんなことが教えられているのでしょうか?
『法華経』には、すべての人が救われると説かれているのですが、自力の教えですから、やはり大変な難行を非常に長い期間行う必要があり、「難信難解第一」と説かれています。
ですから『法華経』には 「この法華経は深智の為に説く、浅識はこれを聞いて迷惑して悟らず、一切の声聞及び辟支仏は、この経の中においては、力及ばざるなり」と説かれています。
現代人の私たちよりもはるかにすぐれた声聞や縁覚のような人でも、法華経では力及ばないということです。
また、「無智の人の中に於てはこの経を説くことなかれ、もし利根にして智慧明らかに多聞強識にして仏道を求むる者あらば、かくの如き人の為に説くべし」とも説かれています。
過去世にすでに長期間修行を積んできた智慧利根の人のためのお経なのです。
ですから、『法華経』には、その教えを実践する人が守らなければならない3つの規則として、室・衣・座が説かれています。
「室」とは一切の人々に大慈悲をもって接すること。
「衣」とはどんなに苦しいことでも笑って忍ぶこと。
「座」とは一切のものに対する執着を断つこと。
この3つを守り続けることができるでしょうか?
そのため、『法華経』の嘱累品という章には、「法華経を信じえない者の為には如来の余の深法を教えよ」と説かれています。


曹洞宗とは
今から八百年ほど前の鎌倉時代、道元禅師(どうげんぜんじ)が正伝の仏法を中国から日本に伝え、瑩山禅師(けいざんぜんじ)が全国に広められ曹洞宗の礎を築かれました。
このお二方を両祖と申し上げ、ご本尊であるお釈迦さまとともに一仏両祖として仰ぎます。
曹洞宗は、お釈迦さまより歴代の祖師方によって相続されてきた「正伝の仏法」を依りどころとする宗派です。
それは坐禅の教えを依りどころにしており、坐禅の実践によって得る身と心のやすらぎが、そのまま「仏の姿」であると自覚することにあります。
そして坐禅の精神による行住坐臥(「行」とは歩くこと、「住」とはとどまること、「坐」とは坐ること、「臥」とは寝ることで、生活すべてを指します)の生活に安住し、お互いに安らかでおだやかな日々を送ることに、人間として生まれてきたこの世に価値を見いだしていこうというのです。

教義
私たちが人間として生を得るということは、仏さまと同じ心、「仏心」を与えられてこの世に生まれたと、道元禅師はおっしゃっておられます。
「仏心」には、自分のいのちを大切にするだけでなく他の人びとや物のいのちも大切にする、他人への思いやりが息づいています。
しかし、私たちはその尊さに気づかずに我がまま勝手の生活をして苦しみや悩みのもとをつくってしまいがちです。
お釈迦さま、道元禅師、瑩山禅師の「み教え」を信じ、その教えに導かれて、毎日の生活の中の行い一つひとつを大切にすることを心がけたならば、身と心が調えられ私たちのなかにある「仏の姿」が
明らかとなります。
日々の生活を意識して行じ、互いに生きる喜びを見いだしていくことが、曹洞宗の目指す生き方といえましょう。

曹洞宗の坐禅

曹洞宗の教えの根幹は坐禅にあります。
それはお釈迦さまが坐禅の修行に精進され、悟りを開かれたことに由来するものです。
禅とは物事の真実の姿、あり方を見極めて、これに正しく対応していく心のはたらきを調えることを指します。
そして坐ることによって身体を安定させ、心を集中させることで身・息・心の調和をはかります。
曹洞宗の坐禅は「只管打坐(しかんたざ)」、ただひたすらに坐るということです。
何か他に目的があってそれを達成する手段として坐禅をするのではありません。
坐禅をする姿そのものが「仏の姿」であり、悟りの姿なのです。
私たちは普段の生活の中で自分勝手な欲望や、物事の表面に振りまわされてしまいがちですが、坐禅においては様々な思惑や欲にとらわれないことが肝心です。
道元禅師はまた、坐禅だけではなくすべての日常行為に坐禅と同じ価値を見いだし、禅の修行として行うことを説かれています。
修行というと日常から離れた何か特別なことのように聞こえますが、毎日の生活の中の行い一つひとつを坐禅と同じ心でつとめ、それを実践し続けることが、私たちにとっての修行なのです。

曹洞宗の歴史

 永平寺
道元禅師の精神は、その後をついだ永平寺二代の孤雲懐弉(こうん えじょう)禅師、永平寺三代で加賀(石川県)の大乗寺(だいじょうじ)を開かれた徹通義介(てっつう ぎかい)禅師を経てその弟子瑩山禅師に受け継がれました。
そして瑩山禅師のもとには、後に能登(石川県)の永光寺(ようこうじ)を継いだ明峰素哲(めいほう そてつ)禅師、總持寺を継いだ峨山韶碩(がさん じょうせき)禅師が出られ、その門下にも多くの
優れた人材が輩出して、日本各地に曹洞禅が広まっていったのす。
特に今一つの中国禅宗の流れをくむ臨済宗(りんざいしゅう)が、幕府や貴族階級など、時の権力者の信仰を得たのに対し、曹洞宗は地方の豪族や一般民衆の帰依を受け、もっぱら地方へと教線を伸ばしていきました。
すなわち、鎌倉末期から室町時代にかけては、臨済宗が鎌倉や京都に最高の寺格を有する5ヶ寺を定めて順位をつけた五山十刹(ごさんじっせつ)の制をしき、五山文学を中心とする禅宗文化を大いに
発展させましたが、曹洞宗はこうした中央の政治権力との結びつきをさけ、地方の民衆の中にとけこんで、民衆の素朴な悩みにこえ、地道な布教活動を続けていきました。
しかし、長い歴史の間には宗門にも色々な乱れや変化が起こりました。
江戸時代になると、徳川幕府による「寺檀(じだん)制度」の確立によって、寺院の組織化と統制が加えられる一方、宗学(しゅうがく)の研究を志す月舟宗胡(げっしゅう そうこ)、卍山道白(まんざん どうはく)、面山瑞方(めんざん ずいほう)等の優れた人材が出て、嗣法(しほう)の乱れを正して道元禅師の示された面授嗣法(めんじゅしほう)の精神に帰るべきことを主張した宗統復古(しゅうとうふっこ)の運動や、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』をはじめとする宗典(しゅうてん)の研究、校訂、出版などが盛んに行われました。
明治維新となり、神道を中心に置こうとする新政府は、神仏を分離して仏教を廃止しようとする廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を断行し、仏教界に大きな打撃を与えました。
しかし仏教界の各宗もよくこの難局に耐え、曹洞宗には大内青巒居士(おおうち せいらん こじ)が出て『修証義(しゅしょうぎ)』の原型を編纂し、その後總持寺の畔上楳仙(あぜがみ ばいせん)
禅師、永平寺の滝谷琢宗(たきや たくしゅう)禅師の校訂を経て宗門(しゅうもん)布教の標準として公布され、在家化導(ざいけけどう)の上に大きな役割を果たしました。
こうしてわが宗門は、今日全国に約1万4千5百の寺院と、520万の檀信徒を擁する大宗団に発展し、未来にむけて更に前進しようとしています。


栄西
臨済宗は、中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つ,鎌倉仏教のひとつです。
中国禅宗の祖とされる達磨から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓山宝林寺の慧能の弟子の1人である南嶽懐譲から、馬祖道一百丈懐海、黄檗希運と続く法系を嗣いだ唐の臨済義玄によって創宗された。
彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。
宋代の大慧宗杲と曹洞宗の宏智正覚の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」がその特徴として認識されるようになる。
日本には栄西以降、中国から各時代に何人もの僧によって持ち込まれ、様々な流派が成立した。
黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。
歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山・鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。

歴史

鎌倉と京都を中心に、武家や皇室の帰依で、次々に創せられた禅刹は、のちに室町幕府の成立とともに、夢窓疎石を開山とする、天竜寺と相国寺を軸に再編され、新しい五山十刹制下に置かれた。
日本臨済宗の主流は、大慧とともに圜悟に次ぐ、宋朝臨済宗の少数派であった虎丘紹隆の系統である。
江戸時代の初め、隠元隆の来朝を期として、従来は五山の外に置かれた大徳寺と妙心寺の新しい動きから、中国・日本の禅の流れを総括し、24流とする説が現れる。
栄西の黄竜宗、道元の曹洞宗、その他を除くと、約20流が虎丘下に属する。
虎丘の宗旨が日本の好みに応じたのであり、白隠の公案禅はその集大成といえる。

教義
日本における臨済宗の発展は、公案禅を踏まえる、宋朝文明の日本化とされる。たとえば、修行と悟りの過程を、牧童が牛を訓練するのに例え、10枚の絵と歌によって説く、2種類の「十牛図頌」がある。
ともに北宋中期のものだが、一はおもに中国で流行し、一は日本だけに受容された。
前者は牛を飼いならし終わって、牧童が牛とともに天に昇り、その姿を消し去るところを理想とし、一個の円相で示す。
後者はこれを第八位に引き下げ、第九位に花咲き水流れる自然を、第十位に布袋を担いで町角に立つ人物を描いて、これを悟りの生きざまとする。
とりわけ、前者の最後の円相を、後者が10枚の絵の背後に置くのは、頓悟(とんご)的な見性体験と、その日常化の思考を示すもので、これが日本民族の好みとなる。京都の禅寺を中心に五山文学や書跡、水墨美術をはじめ、茶の湯、能楽、建築、庭園など、日本で日常生活に即した禅文化の発生をみるのも、理由のないことではない。

天龍寺
禅宗では特定の本尊は立てません。
これは「人間は生まれながらにして仏性をもち、本来みな清浄である」という、お釈迦さまの悟りの体験を自己の内に自覚することを重視しているためです。
そのため本尊にこだわりはなく、仏殿正面には、釈迦如来像または、薬師如来、観音菩薩、文殊菩薩などをまつっているところもあります。
脇には禅宗の始祖達磨大師像、開山祖師の像などがまつられます。
他の宗派はお釈迦さまの説いた経典をよりどころとしていますが、禅宗では、お釈迦さまの悟りの体験を重視するため、特定の経典へのこだわりはありません。
ただ、古くからの習慣として、「大般若波羅蜜多経」「金剛般若経」「般若心経」「法華経」の観世音菩薩普門品などの経典が読まれ、「白隠禅師坐禅和讃」や「宗門安心章」など、また公案に使われる祖師一代の語録などもよく読まれます。
修行僧は師家(指導者)から出された公案にと取り組み、坐禅や作務のあいだも公案に苦しんだ結果、何らかの悟りを得て師家の部屋に行き、その内容を説明(入室参禅)します。
公案自体がおよそ論理的ではない直感の塊だから、修行僧も師家も発言は論理的ではなく激しい問答が繰り返され、時には棒で打たれることもあります。
それが「禅問答」です。
なぜ禅問答を行うかといえば、禅宗は自己を見つめつくす体験であり、悟りの内容は言葉や文字では表現しずらいものです。
修行の段階によっては悟りは何回も訪れるが、そのときの師家は「それ、そこだ。それが悟りだ」と、何かをつかみかけている修行僧に直ちに示してやることができます。
現在の臨済宗は14派に分かれ、各派ごとに本山を有します。
もともと臨済宗では本山を定めず、中国の南宋の五山制度を模した形態が設けあっれていました。
建長3年には鎌倉の建長寺を第一とする五山が、政権が京都に移った建武元年には京都を中心に五山が定められました。
鎌倉派と京都派、武家禅と公家禅など寺格をめぐって対立が激しくなったため、至徳3年に鎌倉・京都の双方に五山制度が定められました。
京都は、南禅寺を別格として、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺。
鎌倉五山は、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺。
さらにそれぞれの下に十刹が定められています。
以来、変遷をへて五山十刹制度は消え、現在に14派本山となっています。
密教寺院が山岳に建てられたのに比べ、禅院は飛鳥時代と同じく平地に整然と配置されました。
禅宗の七堂伽藍は、山門(三門)、仏殿、法堂、僧堂、庫院(庫裏=台所)、東司(西浄=トイレ)、浴室からなります。
台所やトイレ、浴室まで伽藍に含むのは、禅が日常生活すべてを修行の場と考えるからです。
また、その配置は人体にたとえられ、法堂は頭、仏殿は腹、山門は股、僧堂は右手、庫院は左手、東司は右足、浴室は左足を現します。
本来、戒名は仏弟子になった証で、臨済宗では生前に公案を会得し、導師から授かるものです。
院(殿)号は、古くは寺院を建立寄進した貴人につけられた尊称ですが、いまは社会やお寺への貢献と信仰心のあつい人につけられます。
ほかにも軒・庵・斎など住居の名が尊称として用いられます。
道号は、性別や生前の徳、業績をあらわします。
法号は、性格や性別・年齢、そして生前の徳により、禅定門・禅定尼・居士・大姉・信士・信女(成人)・童子・童女(15歳以下)・孩子・孩女(幼児)・嬰子・嬰女(乳児)などがつけられます。
道元が興した曹洞宗も修行の方法は坐禅です。
しかし坐禅に対する心構えがまったく違います。
臨済宗は坐禅を悟りに達する手段と考え、その最中に、公案を思索し工夫する「公案禅」ですが、曹洞宗は坐禅に目的も意味も求めずただ黙々と壁に向かって坐禅する「只管打坐」です。
臨済宗の「看話禅」に対して、曹洞宗は「黙照禅」といいます。
また、曹洞宗は一般民衆の間に、臨済宗は鎌倉幕府の庇護のもと上級武士層にひろまったため「臨済将軍、曹洞土民」といわれました。
栄西は、備中国吉備津宮の神官の子で11歳で天台教学を学び、14歳で比叡山に登りました。28歳で宋に渡り、天台の経典を持ち帰ったが、宋で知った禅をきわめようと47歳で再入宋。
臨済宗黄竜派の虚庵懐敞に師事し、5年目に印可を得て帰国。博多に我が国最初の禅寺聖福寺を開くが、天台宗僧徒の激しい非難をあびて、朝廷から禅停止の命を受ける。


栄西は「興禅護国論」を書いて天台密教の僧として一生を終えるが、著書の最後に禅は再興すると予言して、日本臨済宗の開祖として仰がれます。

一方、道元は、比叡山で天台教学を学び、栄西の門下となって禅を習い、栄西の弟子明全について宋に渡りました。

そこで、曹洞宗の天童如浄に師事し、師の「坐禅中は身心脱落なるべし」という言葉によって悟りを得、日本に帰り、越前の永平寺を拠点に独自の禅風を興しました。
仏壇とは、お寺の本堂を小さくしたようなものですから、本尊をまつることが基本です。
仏壇には位牌も安置しますが、原則として本尊が主で、位牌は従という関係となります。
臨済宗では各派ともほぼ共通して釈迦如来(釈迦牟尼仏)像を本尊としてまつります。


一遍
鎌倉後期の僧一遍(いっぺん)を開祖とする浄土教の一派。
時宗の名は一般に『阿弥陀経』の「臨命終時」に由来するといわれ、平生を臨命終時と心得て、怠りなく称名念仏することを意味する。
一遍は、同志として彼と同行する個人および集団を「時衆(じしゅう)」とよんでいる
また、一向に(ひたすら)阿弥陀仏の名号を唱えることを肝要としたので一向衆とよばれ、一所不住を本旨としたから遊行衆ともいわれた。
時宗として宗名が確立し一般化するのは、江戸時代に入ってからのことである。
一遍は同行の時衆を伴って一所不住を実践する遊行回国の布教の旅で、「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と記した札を結縁の人々に分け与えて(賦算)念仏を勧めた。
また、時衆は踊念仏を興行して、人々を宗教的法悦に誘い込んだという。
歓喜踊躍した群衆が輪になり、口々に「南無阿弥陀仏」の念仏を唱え、鉦(かね)をたたきながら乱舞するさまは、『天狗草紙』や『野守鏡』に記録されており、その独特な布教方法に人気の
集中したことがわかる。
一遍は在世中つねに「我が化導は一期ばかりぞ」といって、とくに後継者の育成や教団の結成に意を用いることはなかったが、弟子の他阿真教の代になると、各地に道場や寺が建立されて
時衆の止住(定住)が始まり、教団も成立をみて統制のための規則が制定された。
さらに真教のあとの他阿智得は、遊行をやめて寺や道場に止住する事情を、檀家の要請によるやむをえぬことと説明し、しかし「心は遊行に候也」と述べている。
時衆の全盛期は鎌倉後期より室町前期までで、信者の中心は武士であったが、一般庶民の間へも広がりをみせた。
時衆僧は仏僧としての教化活動のほかに、広く茶道、花道、連歌、書画などの分野でも才能を示し、武将の軍営に仕えて戦死者葬送の儀を執行し、あるいは情報提供の任をも務めたという。
時衆の衰微は、室町後期の浄土真宗の急激な膨張とともに始まった。
寺院数411、教会数2、教師数537、信者数5万8950で、時宗教団の規模は他宗のそれと比べて小さいが、神奈川県藤沢市にある総本山の清浄光寺には、室町時代の古式に従う法要が伝えられている。

清浄光寺
時宗教義の系譜をさかのぼれば、開祖一遍の師事した聖達は、法然(源空)門下の西山証空の弟子であったから、聖達を介して浄土宗西山派の教義が一遍に影響を及ぼしているといえる。
西山義では、衆生と阿弥陀仏とは一体不二であるとして、「機法一体」「能所不二」を説くが、これがやがて一遍の教法の根幹をなすのである。
一遍はその教法を「十劫に正覚す衆生界一念に往生す弥陀の国 十と一とは不二にして無生を証し 国と界とは平等にして大会に坐す」との「十一不二偈」に表した。
さらに、彼は、機法一体は「南無阿弥陀仏」の名号において実現されるとし、「六字の名号は一遍の法なり 十界の依正は一遍の体なり 万行離念して一遍を証す 
人中上々の妙好華なり」との「六十万人偈」を記した。
これは熊野権現の神託に基づくので神勅ともいわれている。
ここでは、南無阿弥陀仏の名号こそ衆生救済の絶対力を有するということが強調されている。

踊り念仏
時衆の宗教儀礼である「踊り念仏」は、盆踊りの誕生にきわめて大きな意味を持つ。
@宗教的儀礼として「踊り念仏」を盛んに催したことと、
A開祖一遍をはじめ時衆が全国を漂泊回遊(=「遊行」)する遊行聖として布教につとめことである。
その足跡は陸奥から薩摩まで文字通り全国におよび、結果として踊り念仏が全国の念仏系踊り芸能の母体となったと考えられる。
中世の教団の実態は閉鎖的なものではなく、構成員は「一向宗」とも深く交じわるものであったらしい。
一遍自身「融通念仏勧むる聖」と言われ、融通念仏者であった。
一遍はたくさんの人を集める集客手法を融通念仏から学んだ。
彼が人々に配った「南無阿弥陀仏六十万人決定往生」の札は賦算札(ふさんふだ)と呼ばれるが、この賦算という方式は融通念仏が得意とする集客手法であった。
一遍が取り入れた踊り念仏も、実はすでに融通念仏が芸態としていたものであった
戦国時代、時衆はしばしば戦場に現れて戦死者の供養を行った。
この際に催された大念仏や踊り念仏が、後の盆踊りに発展する契機となったと考えられる。


浄土真宗の歴史
真宗大谷派の宗祖は親鷲聖人です。
親鴛は九歳の時、で比叡山にて仏門に帰依しました。
その後、勉学修行を積んだ親鸞は二十九歳で比叡山を下り、京都の六角堂にて百ヶ日間の参籠を行いました。
そして参籠、九十五日目にして聖徳太子の夢告を得て、法然上人の弟子になりました。
ところが法然の念仏教団(浄土宗)が広まるにつれて、旧教団の人々の反感を買い、承元元年念仏禁制の圧力により法然は讃岐に、親鴛は越後へと流罪に処されました。
越後に流された親鷲は、豪族の三条為教の娘、恵信尼と結婚し子供をもうけ、そしてこの地で積極的に布教活動を行いました。
(当時の仏教界では僧侶は妻帯を禁じられていましたが、師の法然は弟子に対して念仏を称えるうえで妨げにならない限り、妻帯することを許していたのです。)
越後に流された五年の後に流罪を解かれましたが、親鸞は都へは帰らず、東国へ向かい常陸国(現在の茨城県)を拠点として人々に念仏の教えを説きました。
こうしたなかで、元仁元年に「教行信証」を著しました。
(浄土真宗ではこの書を「本典」と崇拝し、この年を「立教開宗」の年としています。)
六十三歳で都に帰った親鷲は京都東山大谷に廟所をかまえ、著述に専念し「教行信証」を完成させたほか「三帖和讃」など多数の著書を残しました。
また、この上人の廟所が後に本願寺と称されるようになったそうです。
親鷲の滅後、室町時代に第八代の蓮如上人は親鴛の教えを簡明に説いた「御文書」(または「御文」)の著述や、朝夕の勤行のための「正信偏・和讃」の刊行に努め、これにより本願寺の教線は
全国に更なる広がりを見せました。
それらの功績から蓮如は浄土真宗中興の祖とまで称されています。
第十一代の顕如の後、東・西両本願寺に分立し現在に至っています。
本願寺はもとは一つだったのです。
東本願寺を総本山とするのが真宗大谷派、西本願寺を総本山とするのが浄土真宗本願寺派です。
それぞれ約一万ヶ寺の末寺を有し日本では最大の信者数を持つ宗派の一つです。
そのほかにも三重県津市の専修寺を本山とする真宗高田派、京都の仏光寺を本山とする真宗仏光寺派などがあります。

浄土真宗 東本願寺と西本願寺の違い 

正式な宗派名は東本願寺は真宗大谷派 本山 真宗本廟

西本願寺は浄土真宗本願寺派です。本山龍谷山本願寺

基本的に、西本願寺は豊臣秀吉が創りました。そして東本願寺を創ったのは徳川家康です。

東西分裂の歴史
戦国時代、信長との石山合戦で一向宗(本願寺派)の本山である石山本願寺(現在の大阪城がある場所にあった)が、武装解除に応じたことで、一向宗は石山本願寺から追われます。
秀吉の治世になり、本願寺派は京都の烏丸で本願寺の再興を許されます。
その後、家康の宗教政策によって、当時、本願寺内で分裂状態が起きていたことを利用し、教如を門主とし、本願寺のすぐ東の土地を与えられ本願寺を分立したのが真宗大谷派の始まりです。
この本願寺の立地関係から、西と東という通称が付けられるようになったのです。
慶長7年教如に七条烏丸に四町四方の寺地を寄進され、東本願寺が分立する。
このため准如が継承した七条堀川の本願寺は、西本願寺と呼ばれるようになる。
本願寺の分立にともない、本願寺教団は東西に分裂する。
初代の親鸞から十一代の門主 「顕如(けんにょ)」までは東西本願寺は同じ宗派でしたが西の十二代目が「准如(じゅんにょ)」、東の十二代目が「教如(きょうにょ)」と
分裂してしまいます。
教義の原点はまったく同じです、なぜなら相続争いで別れる前、つまり十一代目までは同じなのですから。
ただ、分かれてからは、作法や声明、仏具や荘厳はそれぞれ違う流れになって行きます。
「南無阿弥陀仏」が本願寺派では「なもあみだぶつ」に対して大谷派では「なむあみだぶつ」と唱えます。


日本仏教の一宗派
法然上人源空を開祖とし、阿弥陀仏に帰命し、その本願を信じ、称名念仏によって、その浄土への往生を期することを教旨とする。
知恩院(京都市東山区)を総本山とし、増上寺(東京都港区)、金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)(京都市左京区)、知恩寺(京都市左京区)、清浄華院(しょうじょうけいん)(京都市上京区)
善導寺(ぜんどうじ)(福岡県久留米(くるめ)市)、光明寺(こうみょうじ)(神奈川県鎌倉市)、善光寺大本願(長野市)を大本山とする。
《無量寿経》《観無量寿経》《阿弥陀経》の三経(浄土三部経)とインドの世親の著した《浄土論》を正依の経論とし,称名念仏(南無阿弥陀仏と口に称える)によって
阿弥陀仏の極楽浄土へ往生することを期す。唐の善導を高祖,法然を宗祖とする。
1175年(安元1)法然は43歳で専修念仏の確信をえた。まだ教団は形成されていなかったが,このときをもって浄土宗開創とする。

法然

鎌倉初期の僧。浄土宗の開祖。諱(いみな)は源空,勅諡(ちょくし)は円光大師など,通称は黒谷上人。
美作の人。1147年比叡山で源光の門に入り,天台を学んだが,1150年教学などに対する疑問を生じ,西塔黒谷の叡空のもとに隠棲し,法然房源空と称した。
以後20年間修学,善導の《観経疏》によって,称名念仏に専修する悟りに達した。
のち,東山の吉水に草庵を結び,老若貴賤を問わず教化した。
1186年天台の学匠顕真と専修念仏について議論し,女官の出家を契機として南都北嶺の迫害を受け,1207年土佐に配流された。
その思想は《選択本願念仏集》に最もよく表現され,至誠心,深心,回向発願心の三心によって,老若貴賤,修行の多寡など問題なく,阿弥陀仏によって救われるとした。
門下に聖光,源智,証空,親鸞などを出し,日本浄土教の発展の基礎となった。


真言宗の歴史
今からおよそ2500年前。お釈迦さまはヒマラヤ山脈の南のふもとルンビニーで誕生されました。
お釈迦さまは、人間の「苦」を克服するために修行を重ね、35歳の時に悟りを開かれ、仏教は始まりました。
お釈迦さまの説法集である経典、教団の戒律集である律典が成立しました。
紀元前2世紀頃には、戒律の実践、物や心の考え方の相違をめぐって2派に分かれました。
紀元前2世紀頃からその後200年にわたって20部派に分裂し、紀元前1世紀頃から大乗経典が登場することになります。
7世紀中期には、密教の根本経典である「 大日経 」「金剛頂経」が成立するなど、八万四千の法門といわれる仏典は、一千年に及ぶ期間において編纂され「 大蔵経 」「一切経」としてまとめ上げられました。
このようにインドに起こった仏教は、時代とともに、伝播の経路により、分派・変化してきました。
中央アジアを経て、中国には前漢の 哀帝代、紀元前2年に、朝鮮には 高句麗に370年代に伝来し、日本へは欽明天皇代の538年に使者を遣わし仏像、仏具、経巻を送ったといわれています。
その後、聖徳太子が仏教の理想に基づく統一国家の建設を目指し、法隆寺を建立しました。
また、奈良時代には唐の都・長安にならい、律令国家にふさわしい平城京を造営。聖武天皇は東大寺建立、国分寺を建立するなど、天平文化の花が開き、桓武天皇による平安遷都、そして弘法大師空海の時代となっていきます。
奈良仏教は、南都六宗と呼ばれる学問仏教、学派というべきものでした。
律令体制の中、寺院は 官寺で、僧尼は 官吏(国家公務員)の様に 僧尼令によって統制されました。
そして、 鎮護国家の為の仏教、いわゆる国家仏教というものでした。
僧侶たちも仏教の教えによって人々を救うというより、難解な理論研究を中心としていました。
しかし、やがて人々のために生きようとする僧侶たちが、山林に 苦修練行して自らを磨き、人々のための仏教が新たに生まれてきます。
平安遷都にともない新しい国づくりを目指す日本では、その原動力となるような、生命力に満ちあふれた新しい教えの出現が求められていました。
このような時代的・社会的な課題をふまえて、真言宗は開かれたのです。
こうした背景の中で、弘法大師は人生の「苦」を乗り越える仏教を求め、唐の国(中国)へ留学します。
その都・長安の 青龍寺で、インド以来の密教の正統を伝える第一人者、 恵果阿闍梨にめぐり合いました。
そして、その教えを始め、経典類、儀礼に関する書や法具など、あますところなく継承します。
つまり、密教の正統な伝承者となって、最新の知識や見聞をも身につけて帰国されました。
その後、密教の教えを組織的に体系化して、時代に即応する真言宗を開宗されたのです。

真言宗の教え

真言宗は、 弘法大師空海によって開かれました。
その教えは、自分自身が本来持っている「 仏心 」を、「今このとき」に呼び起こす 即身成仏に求められます。
それは、自分自身を深く見つめ、「仏のような心で」「仏のように語り」「仏のように行う」という生き方です。
この教えをもとに、人々がともに高めあっていくことで、理想の世界である 密厳仏国土が実現します。
真言宗のご本尊は 大日如来です。
大いなる 智慧 と 慈悲 をもって、すべてのものを照らす根本の仏さまです。
また、仏教に多く存在する仏さますべてを、ひとつも否定することなく、それぞれを大切に考えます。
すべての仏さまは大日如来につながると考えます。
そのため真言宗寺院のご本尊はさまざまです。
真言宗が拠り所とする経典は、『 大日経 』『 金剛頂経 』です。
法要の中で唱えられる主なお経は『 般若理趣経 』『般若心経』『観音経』などです。
曼荼羅 は、宇宙に遍満する生きとし生けるものを仏の姿として、大日如来を中心に描き出したものです。
9世紀の初めに 弘法大師空海により 真言声明が、また中頃には 慈覚大師円仁により 天台声明がそれぞれ中国から伝えられました。

弘法大師の生涯と業績

弘法大師は、奈良時代末の宝亀5年、現在の四国香川県善通寺市で、父 佐伯直田公 、母 玉依 の三男としてお生まれになりました。
幼名を 真魚といいます。
聡明だった真魚は、早くから伯父で桓武天皇の皇子の教育係も務めた 阿刀大足 より漢語や詩・文章を学んでいました。
15歳のとき、阿刀大足に伴われて上京し、さらに学問を学びました。
そして18歳の時、大学の明経科に入り学問を続けますが、官吏養成を目的とした立身出世のための勉強は、空海が求めていたものとは異なっていました。
そして人生の根本問題を解明するためには仏教を学ぶ事が必要だと考えて、大学を中退し仏道に進む決心を固めるのです。
初めに一人の僧侶から 虚空蔵求聞持法という密教の修法を学び、四国や奈良県吉野の山々をめぐり修行を重ねました。
やがて僧侶として名前を空海と改めましたが、空海のこの様な生き方は伯父阿刀大足をはじめとする親族に、忠孝の道に背くと反対されます。
しかし、24歳の空海は『 三教指帰 』を著し、仏教と儒教・道教の優劣を明らかにしました。
仏教の研鑽を続けていた空海は、大和 久米寺で、密教の根本経典『大日経』を目にしたとされています。
しかし、密教の経典は、阿闍梨からの直接の伝授がなければわからない事が多く、入唐求法の機会を待っていました。
31歳のとき、遣唐使船に乗り、入唐する機会を得ました。
延暦23年今の長崎県 田浦を出港します。
ところが暴風雨に遭い難破し、空海の乗り込んだ船は、34日間の漂流の後、幸いにも中国の 福州の付近に漂着しました。
しかし通常は、遣唐使船の訪れない土地ゆえ、上陸を許可されず、遣唐大使の再三にわたる弁明の書簡も問題にされませんでした。
そこで空海が書簡を書したところ、その理路整然とした文章と優れた筆跡により、遣唐使船であると認められます。
その後上陸が許可され、12月に遣唐使一行は首都長安に着く事ができました。
長安到着後、空海は西明寺に住し、精力的に学んでいました。
そして翌年5月末、青龍寺の恵果和尚をたずねました。
恵果和尚は初対面の空海を見るなり「我、先より汝の来る事を知って、相待つ事久し。報命尽きなんとして付法に人なし……」と言い、その年の12月15日に入寂するまで、 正嫡の弟子として、空海に自分の教えのすべてを授けました。
恵果和尚入寂後、空海は「恵果和尚碑文」を書したのち、和尚の教えを守り、33歳の秋に帰国されました。
空海は大同元年九州に到着し、在唐中集めた密教経典・法具などを記した『御請来目録』を朝廷に奉呈し、 筑紫観世音寺に住しました。そして大同4年、朝命により上京し、 高雄山寺 に入住しました。
嵯峨天皇の思し召しによって高雄山寺に入った空海は、ここで真言密教を流布し国家安泰の祈祷を修しました。
そして空海のもとには多くの僧侶が集まり、日本天台宗の宗祖・ 伝教大師 最澄 も高雄山寺に登って灌頂を受法されました。
空海は歴代天皇の篤い帰依を受け、仏教諸宗の中にも真言密教が浸透していきました。
また、一宗の根本道場として東寺を賜り、43歳の弘仁7年には、嵯峨天皇より高野山を賜りました。
45歳の弘仁9年から4年間余りは、高野山を中心に過ごされ、修法や著述などにいそしまれました。
空海は偉大な思想家であると共に、多彩な文化活動をしました。唐で集めた文献や新知識により、社会のため人々のため優れた才能を次々と発揮されたのです。
中でも 満濃池の修築工事では、水圧に対してアーチ型の堤防を築くなど技術指導をされ、現在に至るまで利用されています。
この他にも道を開き、橋を架け、井戸を掘り、温泉の効用を教え、漢方医学の知識を授けたなどの伝承があります。
また文化史上最大の功労者でもあり、『 十住心論 』や『 秘蔵宝鑰 』をはじめ、多くの著作を著しています。
『 文鏡秘府論 』『 文筆眼心抄 』は日本最初の文章学概論であり、文芸評論でありました。
また『 篆隷万象名義 』という日本最初の辞書を作られました。『三教指帰』『 性霊集 』 などは、詩・文ともに、日本の文学史上高い評価を得られています。
中国語や梵語など語学にも造詣が深く、書道では三筆の一人として、美術においては弘仁期以後の仏像・仏画に大きな影響を与え、建築においても同様でした。
承和 元年、数ヶ月後の入定を予期しつつ、国の安寧を祈るため、宮中に道場を開いて真言の秘法を修する事を奏上し、勅許を得ました。
これは今日に至るまで「 後七日御修法 」として連綿と続いており、真言宗最高の法会とされています。
承和2年の正月、御修法の 導師を勤めた空海は、弟子たちに遺言をのこし、3月21日、62歳で高野山において入定されました。
そして86年後の延喜21年、醍醐天皇から弘法大師の 諡号を賜りました。
さらに日本最初の庶民教育機関「 綜芸種智院 」を開き、教育の機会均等を実現したのです。



日本の天台宗は、今から1200年前の延暦25年(806)、伝教大師最澄によって開かれた宗派です。

最澄は神護景雲元年(767)、近江国滋賀郡、琵琶湖西岸の三津(今日の滋賀県坂本)で、三津首百枝(みつのおびとももえ)の長男として誕生。幼名を広野(ひろの)と呼ばれました。
早くからその才能を開花させ、12歳で近江の国分寺行表(ぎょうひょう)の弟子となり、宝亀11年(780)に得度、延暦4年(785)に奈良の東大寺戒壇院で具足戒(250戒)を受け、国に認められた正式な僧侶となられたのです。
受戒後3ヵ月ほどで奈良を離れ、比叡山に分け入り修行の生活に入られました。そして若き僧最澄は【願文】を作り、一乗の教えを体解(たいげ)するまで山を下りないと、み仏に誓いました。
その後、延暦7年(788)に一乗止観院(後の根本中堂)を創建、本尊として薬師如来を刻まれました。
「私たちの住むこの迷いの世界は、ただ苦しみばかりで少しも心安らかなことなどない。(中略)人間として生れることは難しく、また生れたとしてもその身体ははかなく移ろいやすい。」
と、世の中の無常と人間のはかなさを自覚されました。
そして、「因なくして果を得、この処(ことわ)りあることなく、善なくして苦を免がる、この処(ことわ)りあることなし。」と因果の厳しさを述べ、だからこそ生きているときに善いことをする努力を
惜しんではならないと考え、『願文』の中で五つの【心願】をたてられたのです。
天台大師智リの教えを極めたいと願い、桓武天皇の援助を受けて還学生(げんがくしょう)として唐に渡りました。
中国天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)・仏隴寺の行満に天台教学を学び、典籍の書写をします。
その後禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅の教えを受けられ、帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受けられます。
こうして、円密一致といわれる日本天台宗の基礎をつくられたのです。
延暦24年(805)に帰朝してすぐに、高雄山寺で奈良の学僧達に日本で初めて密教の潅頂を授けるなどして、入唐求法の成果を明らかにされました。
当時、「仏に成れるもの、仏に成れないものを区別する」という説もありましたが、最澄は、「すべての人が仏に成れる」と説く
『法華経』に基づいて、日本全土を大乗仏教の国にしていかねばならないとの願いが募り、『法華経』の一乗の精神による人材の養成を目指しました。
こうした最澄の努力と熱意が通じ、延暦25年(806)1月26日、年分度者(国家公認の僧侶)2名認可の官符が発せられました。
このことから、1月26日を天台宗開宗の日としています。
2名の年分度者とは、天台教学を学ぶ者(止観業)1名と、密教を学ぶ者(遮那業)1名でした。
その後最澄は、真俗一貫の大乗菩薩戒こそが真に国を護り人々を幸せにすると考え、弘仁9年(818)から翌年にかけて【山家学生式】(さんげがくしょうしき)と呼ばれる一連の上表を行います。
さらに弘仁11年(820)、『顕戒論』を著わして比叡山に大乗戒独立の允許を求めたのでした。

そして弘仁13年(822)6月4日に最澄は遷化され、その7日後、比叡山独自に大乗菩薩戒を授けることの勅許が下されたのです。
最澄亡き後、一乗止観院は「延暦寺」の寺額を勅賜され、比叡山延暦寺と呼ばれるようになりました。
翌年、弟子の義真が伝法師(後世の天台座主のこと)として後を継ぎます。
第3世座主円仁によって、延暦寺では横川(よかわ)が開かれ、東塔地区も整備されていきます。
また、9年間に亘る入唐求法の成果をもとに、天台教学の中に浄土教を取り入れ、密教を拡充していくなど、その功績は多大なものでした。
円仁の没後ほどなく、貞観8年(866)、最澄には「伝教大師」、円仁には「慈覚大師」という諡号(しごう)を清和天皇より賜りました。
これは日本における初めての大師号であり、最澄・円仁による天台宗の確立が、いかに日本仏教の発展に寄与したかを示すものであります。
また、第5世座主の円珍(智証大師)や五大院安然らによって密教も体系的に整備され、後に東密(真言宗の密教)に対して台密(天台宗の密教)と称されるようになりました。
その後も多くの人材が比叡山で研鑽に励み、学問も修行も充実していきます。
平安時代中期には、第18世座主の良源(慈恵大師)によって諸堂の再建と整備がなされ、論義が盛んに行われて教学の振興がはかられました。
さらに弟子の源信(恵心僧都)によって『往生要集』が著わされ、これが後の日本の浄土教発展の基礎となりました。
また、『法華経』や浄土教信仰などは知識人の間に浸透し、『源氏物語』や『平家物語』に代表される古典文学の底流をなしています。
円仁が中国からもたらし大成した声明は、日本伝統音楽の源流となり、また能・茶道にも天台の仏教思想が深く入り込んでいるといわれています。
平安末期から鎌倉時代はじめにかけては、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった各宗派の開祖たちが比叡山で学びました。
こうして後に比叡山は日本仏教の母山と呼ばれるようになったのです。
時代は下り、盛栄を誇った比叡山延暦寺も織田信長の焼き討ちにあい、一時その宗勢に陰りが見えましたが、江戸時代になり徳川家康の懐刀と云われた天海(慈眼大師)によってその勢力を盛り返し、
特に寛永寺は西の比叡山に対して東叡山と呼ばれ、その影響力を日本全土に及ぼしたのです。

北海道

【北海盆踊り】北海道の各地域で催される盆踊り。
一般的に一部の「こどもの部」、二部の「大人の部」に分かれており、自治体などが開催する大規模なものの場合は二部ともに、小規模の場合は「こども盆踊り」のみ行われることが多いそうです。
大規模な開催地のものとしては「三笠北海盆おどり(三笠市)」「復活北海盆踊り(岩内町)」「さっぽろ夏まつり北海盆踊り(札幌市大通公園)」などがあります。

東北地方

【黒石よされ】青森県の黒石市の盆踊り。
「エッチャホー、エッチャホー」の掛け声にあわせて踊ります。「日本三大流し踊り」のうちの1つとしても有名です。
【秋田の三大盆踊り】秋田県で毎年8月のお盆時期に開催される三大盆踊り(一日市の盆踊り(八郎潟町)、毛馬内の盆踊り(鹿角市)、西馬音内の盆踊り(羽後町))が有名です。
【舟っこ流し】岩手県盛岡市で藩政時代から伝えられている送り盆の慣習で、お盆に行われる精霊舟・送り火と同じような意味を持ちます。
遺影や故人の戒名などを書いた札を舟に貼り、さらに提灯などで飾って供養するというものです。

関東地方
【佃の盆踊り(つくだのぼんおどり)】東京都中央区で行われる念仏踊りです。櫓太鼓の音に合わせて櫓の周りを踊るもので、東京都の無形文化財に指定されています。
【百八灯流し(ひゃくはっとうながし)】栃木県栃木市で行われる行事で、108本ものろうそくが灯された舟が「巴波川」を往来。百八の煩悩を水に流す、安産のお守りになるといったいわれがあります。

中部地方

【遠州大念仏(えんしゅうだいねんぶつ)】静岡県の浜松市を中心とした市町などで催されるお盆の行事で、初盆を迎えた家をまわり、太鼓の音などに合わせ念仏踊りをします。
浜松市の無形民俗文化財にも指定されています。
【おわら風の盆(おわらかぜのぼん)】富山市八尾町で催される、富山県を代表するお盆の行事。
この祭りが開催される3日間、八尾には約25万人もの見物客が訪れにぎわいます。
また、岐阜の郡上市八幡町で行われる「日本三大盆踊り」のひとつ「郡上おどり」や、福井県・石川県などで行われる迎え火の行事「御招霊(おしょうれい)」なども有名です。

近畿地方

【五山の送り火(ござんのおくりび)】京都で、如意ヶ嶽など五山で催される全国的にも有名な名物行事「かがり火」。
大文字の送り火などと呼ばれる場合もあります。
また、奈良の高円山で行われる「高円山大文字送り火」も同じく有名で、昭和35年から始められたと言われている伝統行事です。

中国地方
【盆燈籠・盆灯篭(ぼんとうろう)】お盆のときに、お墓にお供えする灯篭型の飾りのことで、広島県の安芸地方などでみられる独特な慣習です。

四国

【阿波踊り】徳島県発祥の有名な盆踊りで、400年もの歴史があるそうです。「
四国三大祭り」および「日本三大盆踊り」の一つとされています。最近は全国的にも踊られるようになってきましたが、やはり「徳島市阿波おどり」が国内最大規模です。

九州地方

【精霊流し(しょうろうながし)】長崎の県内各地で催されるお盆の慣習で、盆提灯などを飾った精霊船に故人の精霊を乗せ、魂を弔って送るという伝統行事です。
【チャンココ踊り】五島市で行われる伝統的な念仏踊り。お盆の一大風物詩となっており、「掛」と呼ばれる踊り手が帷子を身にまとい、腰蓑を付けて踊ります。

沖縄
【アンガマ】石垣などに伝えられる儀礼集団芸能で、祖先を表わしているとされる「媼」と「翁」の仮面をつけた2人を先頭として、民家を訪ねて唄や踊りを披露します。
【エイサー】沖縄県の各地でお盆に踊られる、有名な伝統芸能です。ご祖先様の霊を送迎すべく、若者達が囃子と唄に合わせて踊り、通りを練り歩きます。



お盆は、正式には盂蘭盆会(うらぼんえ)といいます。
ご先祖や故人の霊が、一年に一度家に帰って来るといわれており、その霊を迎え供養する期間がお盆です。
東京では7月13日から7月16日、その他の地方では8月13日から8月16日に行われ、8月のお盆のことを旧盆とか月遅れのお盆といいます。
精霊棚(盆棚)やお仏壇に、精進料理を供えた仏膳(霊供膳)や、季節の物を供えてお盆のしつらえをし、盆提灯を飾ってご先祖や故人の霊をお迎えします。
一般的には13日の夕方に、家の前で焙烙という素焼きの皿の上でおがらを焚いて「迎え火」としてご先祖の霊を迎え、16日には再び火を焚いて「送り火」として送り出します。
地域によってはこの時期に、菩提寺のご住職が檀家を回ってお経をあげる、棚経も行われます。
浄土真宗では、迎え火で霊をお迎えする習わしはありません。盆棚は作らず、仏さまとご先祖に報恩感謝をささげます。

新盆(にいぼん・しんぼん・はつぼん)


故人が亡くなって四十九日の後、初めて迎えるお盆を新盆といい、「にいぼん・しんぼん・はつぼん」などと呼びます。
自宅で、家族や親族のほか、故人と縁の深かった方々を招いて、普段のお盆より特に丁寧に営みます。
新盆には普通の盆提灯のほかに、白い新盆用の提灯を飾ります。
この白提灯を飾るのは新盆の時だけで、お盆が終わったら燃やして処分します。

お盆の実際
お盆は、伝統的な農耕儀礼や、祖先のお祀りの習慣などが融合して、今の形態へと発展しました。
神道の要素もあり、先祖供養の儀式もありと、さまざまな面がみられます。それゆえ、地方色が強く反映されています。
お盆の時期、8月15日前後には連休を取り、田舎のある人は、実家へ戻って、墓参りなどをして、先祖に手を合わせ、その地方地方に伝わる方法で、お盆の準備をします。
お盆の時期に行われる七夕、盆踊り、夏祭り、お中元なども、すべて盆の習慣から発生した行事です。
お盆の習慣は、仏教以前の祖霊祭祀から発生している、古い習慣といわれ、正月同様、日本人にはなくてはならない習慣といえるでしょう。

お盆の仏教的意味は
仏教行事としてのお盆は、仏説盂蘭盆経に基づくものです。
お釈迦さまの弟子であった目連尊者が、餓鬼道に落ちて苦しんでる母親を、7月15日に多くの僧侶たちに供物を施し供養することによって、救い出すことができたという言い伝えによります。
以来7月15日は、ご先祖や故人に報恩感謝をささげ供養をつむ重要な日になったのです。
餓鬼道 六道・三悪道の一。飲食が自由にならず、飢えに苦しむ世界。
また多くの寺院では、この時期に、餓鬼道や地獄に落ちて苦しんでいる霊を救うための施餓鬼会と呼ばれる法要を営みます。

お盆のナスの牛の意味は

お盆の時に、ご先祖の霊の乗り物として、キュウリの馬と、ナスの牛を供えるところがあります。
これはご先祖の霊が馬に乗って一刻も早くこの世に帰り、牛に乗ってゆっくりあの世へ戻って行くように、との願いを込めたものといわれています。



お彼岸の由来

お彼岸にはお墓参りをするという方は多いと思います。
しかし一方で、お彼岸にお墓参りをする理由を知っている方は以外と少ないのではないかと思います。
また、お彼岸とはそもそもどのような意味があるのでしょうか。
日本には「日本らしい」と思える数多くの風習がありますが、現代に生きる私達はそれらを行う理由や由来についてまではあまり詳しく知りません。
勿論、理由や由来など知らずとも、お彼岸に先祖供養に訪れることである程度は成し遂げられているのかも知れません。
ですが、せっかく日本人に生まれたのですから、一つ一つの行事の意味を知ることは大切なのではないかと思うのです。
そこで今回は、お彼岸の由来や意味について詳しく調べてみたいと思います。
彼岸(ひがん)は仏教用語です。
サンスクリット語のパーラミター(波羅蜜多)が語源とされており、パーラミターとは到彼岸、つまりは煩悩や悩みを越えて到達する悟りの境地のことを言います。
逆に、煩悩や悩みに溢れた私達が住む世界を此岸(しがん)と言い、此岸にいる者が「布施」「持戒」、「忍辱」、「精進」、「禅定」、「智慧」の6つを修業することで、彼岸に行くことができると
されています。
ちなみにこの6つの修業を『六波羅蜜』と言います。
また、仏教の西方極楽浄土の教えにより、十億万仏土先の西方には阿弥陀如来がいるとされる浄土がある、言われていることから、太陽が真東から昇って真西へ沈む春分・秋分の日を中日として
前後3日計7日間を「彼岸」と呼び、この期間に修業をするのがよいとされていたのです。

なぜ、お彼岸にお墓参りをするの?

実は、お彼岸に墓参りをするのは日本独特の風習で、仏教国であるインドやその他の国では見られません。
「彼岸」そのものは仏教の教えですが、「お彼岸」は日本でのみ行われ、正式名称は「彼岸会(ひがんえ)」と言います。
日本には、古来より農耕儀式や自然崇拝の考えがあり、種を撒く時期(春)や収穫の季節(秋)には五穀豊穣や安全を山や先祖に祈願しました。
また、仏教の伝来前より『神道』と言って、万物に神様が宿るという考えが日本にはあり(八百万の神)、太陽も神様として崇められていたことから、そこに仏教の西方浄土の教えが伝わったことで、
太陽が最も真西へ沈む(西方浄土)春分・秋分の日に先祖を供養するのがよいと考えられるようになったのではないかとされています。

お彼岸のお供え物は何が良いの?

お彼岸のお供え物と言えば、「ぼた餅」と「おはぎ」だと思います。
実はこの2つ、材料から作り方まで全く同じ食べ物で、違うのはその呼び方だけです。
では、どうしてわざわざ違う名前で呼ばれるのでしょうか。そこには、日本の四季に対する美しい考え方が根底にあるからです。
「ぼた餅」は漢字で書くと「牡丹餅」、「おはぎ」は「お萩」と書きます。
すなわち、「ぼた餅」は春に咲く牡丹を、「おはぎ」は中秋の名月に供える「萩」から名付けられているのです。
ちなみに、お彼岸に「ぼた餅」や「おはぎ」を食べる理由については、材料に使われる小豆の朱色が、災難から身を守る除厄の効果があるとされていたからです。


墓地とは
一般的に、墓地とは寺院の境内地にあるものをいい、霊園とはそれ以外の墓園をいいます。
霊園と墓地の大きな違いは、檀家制度にあります。
墓地を購入する場合は、その墓地を管理する寺院の檀家にならなければならない場合があります。
檀家になるということは、お墓を建てる権利を得るだけでなく、寺院の運営を共に支える支援者になることを意味します。
寺院は檀家の寄付や修繕費の負担などによって支えられているということをまずは理解しましょう。
一方、霊園には檀家制度はありません。
このように書くと、「墓地を選んで檀家になったら負担ばかりが増える…」と思われるかもしれませんが、そうとも言い切れません。
墓地には霊園にはないメリットもあるからです。
霊園は郊外にあることが一般的ですが、墓地は各所にあるため交通の便がいいところが多いですし、法要を1カ所で行えるなど法事の際の便宜がよく、手厚い供養をしてもらえるといったメリットがあります。
また、墓地を選択することは誰もができることではありません。宗旨・宗派に関して厳しいところが多く、仏教以外の信徒だと檀家になれないというケースもあるようです。

霊園とは
一方、霊園は、寺院に属さない墓地という考え方もできます。
霊園には大きく分けて、民営霊園と公営霊園があります。
民営霊園は公益法人、宗教法人などが運営する霊園で、公営霊園は都道府県・市町村などの自治体が運営する霊園です。
霊園の場合は墓地と違って、法事の際は、僧侶への読経の依頼や場所の選択などは自由ですが、自分で行う必要があります。
霊園のメリットは、前述のとおり宗派・宗旨不問のところが多いという他に、送迎バスなどのサービスが充実しているところが多い点などが挙げられます。

わかりやすく、寺院墓地、民営霊園、公営霊園の比較表を下記に記載します。
<寺院墓地>
メリット檀家になることで手厚く供養してもらえる。法要などで困ったことがあれば、すぐに僧侶に相談することができる。交通の便がよいところが多い。
デメリット檀家になる必要がある場合が多く、檀家になると、檀家としての務め(お寺の行事・活動への参加や寺院の維持のために寄付など)が必要になるケースも。墓石の形状や大きさ、
デザインは決められている場合が多い。
<民営霊園>
メリット多くの霊園で宗教や国籍の制約がない。区画面積や墓石の形・デザインを自由に選ぶことができる。送迎バスや駐車場、その他施設などサービスが充実しているところが多い。
デメリット公営霊園と比較すると永代使用料や管理費は高い場合が多い。
<公営霊園>
メリットほとんどの霊園で宗教や国籍の制約がない。永代使用料・管理費が寺院墓地や民間霊園と比べると安い場合が多い。
デメリット応募多数で抽選になる場合が多い。区画や墓石の形・デザインが制限される場合がある。生前購入ができないことがある

墓地の購入とは 
墓地の購入は一般の土地の購入とは異なり、「永代使用権」の取得を意味します。
永代使用権とは、子孫がその墓地を継承する限り使用権が連続するというもので継承者のいない墓地は、法律に定められた手続きによって墓地の運営者に戻されます。
最近では有効期限付きの墓地もでき、それらの多くは契約の期限が過ぎたり、最後に行った納骨から一定の期限が過ぎたら無縁化しないように、納骨堂や永代供養墓に合祀されることになっています。

新しいお墓を建てたら 
墓石に魂を入れる開眼供養をします。
開眼法要では、僧侶を招いてお経をあげてもらいます。
開眼とは、仏像や仏画、位牌、仏壇、お墓などに魂を入れて安置することを言います。
もともとは仏像の目を開くという意味で、仏像作りでは大部分を完成させておいて最後に仏像の目を描きます。
これを儀式化したものが開眼供養で、開眼供養を行って初めて仏像に霊験が宿るとされています。
開眼供養の費用としてのお布施の額に決まりはありませんが、3万円〜5万円が相場だと言われています。
奉書紙に包むか、白封筒などに入れて、表書きは御布施または入魂御礼、御礼とします。

建碑祝いについての知識 

生前にお墓を建てた場合や何らかの事情でお墓の引っ越し(改葬)をして新しくお墓を建てた場合、お墓に関することなので弔事だと勘違いをされる方も少なくないですが、これはお祝い事にあたります。
そのお祝いを建碑祝いと言います。
新しく家を建てた時にお祝いをするのと同じように、お墓を建てることもおめでたいこととして、親族が集まってそのお祝いをします。
建碑式はお祝い事なので、喪服を着ることはありません。
略礼服またはダークスーツなど落ち着いた服装であれば特に問題はありません。
お祝いのお金は「建碑御祝」「建陵御祝」「建碑設立御祝」などと表書きした紅白蝶結びの水引の祝儀袋に入れます。

相続の注意は
故人が遺した財産を受け継ぐことを相続といいます。
相続については民法により、法定相続人と遺産相続割合が定められています。
法定相続人とは、配偶者・子供(第一順位)、父母(第二順位)、兄弟姉妹(第三順位)です。
財産の相続にあたっては、相続税の納付が必要となります。
相続税の納付期間は、故人が亡くなった翌日から10ヶ月以内で、一定の額までは税金がかからない基礎控除があります.



準備の流れ(遺族側)

★日程を決める
百箇日法要以前の追善供養については、亡くなられた日を1日目として数えるのが通例です。
また、一周忌法要のみ満1年目に営まれますが、その後の年回忌法要は「数え」で年齢を計算します。
基本的には命日に行うものではありますが、親族等が参列しやすくするため、みなが集まりやすい休日に行うケースが増えています。
命日より前に行うのが常識です。

★会場(場所)を決める
自宅・寺院など、会場(場所)をあらかじめ決めておきます。法事・法要の会場と、法事終了後に食事をする会場とを別にするケースもありますので注意しましょう。

★料理の手配をする
法事・法要の会場(場所)を決めたら、続いて料理の手配を行います。
お祝いの意味がある伊勢海老や鯛といった食材は避けるようにし、法事で利用する旨を伝えておきましょう。

★菩提寺・寺院へ連絡する
会場と日程が決まったら、菩提寺に連絡をします。法要をお寺ではなく、ホールなどで行う場合にはあらかじめお寺さんの都合を伺っておいたほうが、スムーズです。
また、菩提寺がない場合には、お坊さん便のようなお坊さんを紹介してくれるサービスに問い合わせましょう。

★案内状の手配
続いて、法事・法要の案内状の準備を行い、手配しましょう。往復はがき、もしくは返信用のはがきを入れた封書などで案内状を送付し、出欠を伺います。
なお、親族のみで実施する場合ならば電話連絡でも可です。

★法要のお返し(引出物)の手配
続いて法要のお返し(引出物)を手配します。
法要のお返し(引出物)における熨斗の水引は、黒白あるいは双銀の結び切りを用います。
品物としては、生活実用品や食品など形が残らない消耗品を選ぶようにしましょう。
遠方より足を運ばれる方もいらっしゃいますから、重くてかさ張るものは避けましょう。
なお、現在ではカタログギフトの利用も多くなっています。
不祝儀専用のカタログを揃える店舗も見受けられます。予算的には2,000円から5,000円ほどが相場となります。

★お布施などを用意しておく
お坊さんへのお布施をあらかじめ用意しておきます。
お斎(食事)に参席いただける場合は、「お布施」と「お車代」を用意しましょう。
また、参席を遠慮される場合は、「お布施」と「お車代」くわえて「御膳料」を添えてお渡しするのが一般的です。

★お布施の表書きに用いる墨について
お布施を包む封筒の表書きには、一般的には四十九日法要前までは薄墨を用い、四十九日法要以降は濃墨を用います。

★お布施に包むお金について
法事・法要の際、お布施に用いるお札は新札でも古いお札でもどちらでも失礼には当たりません。
ただし、汚れが付いているお札は避けましょう。また、お布施は封筒を直接渡すのではなく、
小さな「おぼん」に載せた状態や袱紗で包んだ上でお坊さんに渡します。
お布施を裸の状態で渡すのは失礼にあたりますので、十分に配慮しましょう。

当日の流れ(遺族側)
★お坊さんの入場
お仏前にお坊さんが座る場所を用意しておきます。遺族は、故人との関係が深い人ほど前の方に座ります。お仏前中央にあたるお坊さんの真後ろには、施主が着席します。
お坊さんが来たら、お仏前の中央にお招きします。

★施主による開始の挨拶
続いて、施主による開始の挨拶を行います。下記に施主の挨拶例文を紹介します。開始の挨拶は、下記のように簡潔に行いましょう。

施主による開始の挨拶例文
本日は、ご多用のところご列席くださいまして、誠にありがとうございます。それでは、これより○○○○(戒名)の○○回忌(○○日)の法要を執り行ないたいと思います。
それでは、よろしくお願いします。

★お坊さんの読経
お坊さんがお経を読み上げます。

★お焼香
お焼香は施主から始め、前の方に座っている方から順に、お焼香を行ないます。

★法話
お坊さんによる法話を聞きます。

★お坊さんの退場
お坊さんが退場される際に「御布施」と「お車代」と「御膳料」をお渡しします。
但し、お斎(法要後の食事)にお坊さんが同席される場合には、ここでの退場はなく「御膳料」は必要ありません。
「お布施」と「お車代」を包んで、お斎(法要後の食事)が済みましたら、お渡しするようにしましょう。

★お墓参り
続いて、お墓参りを行います。ただし、墓地が遠方であれば、行ないません。

★施主による終了の挨拶
お墓参り(お墓参りを行わない場合はお斎)が済みましたら、施主による法事・法要の終了の挨拶を行います。
下記に挨拶例文を紹介します。

施主による終了の挨拶例文
本日は、ご多用のところご列席頂き、誠にありがとうございました。
父の一周忌の法要に、このような多くの方々にお越し頂いて、故人もきっと喜んでいることと思います。
皆様方には今後も故人同様お付き合い頂き、ご支援の程よろしくお願い申し上げます。
心ばかりではございますが、別室にてお膳をご用意させて頂きました。お時間が許します限り、ごゆっくりくつろいでいらして下さい。本日は誠にありがとうございました。

準備(参列者側)

法事・法要の案内状が届いたら、止むを得ない事情が無い限り、時間をとって参列するようにします。
万が一、どうしても時間がとれない時には、詫び状と共に御供物料、もしくはお花や果物といったお供え物をお贈りしましょう。

★服装
参列者は、初七日から四十九日までの期間の法事・法要に参列する際は略式喪服、一周忌以降の年忌法要に関しては略式礼装または黒やグレーなどの服を着用します。
七回忌を過ぎれば、地味なものなら平服で構いません。

★熨斗袋の表書き

🔶仏式の場合
御供物料は、宗教を問わず使用できます。仏式特有の表現としては「お仏前」や「御香料」といったものがあります。
※「御仏前」は、浄土真宗のみ四十九日前でも使えます。浄土真宗を除く他の宗派の場合、四十九日前には「御霊前」と書きます。四十九日を過ぎたら宗派に関係なく「御仏前」と
なりますので気をつけましょう。

🔶神式の場合
神式特有の表現としては、「御玉串料」や「御神前料」「御神撰料」といったものがあります。また、御供物料は宗教を問わず使用できます。

🔶キリスト教式の場合
御供物料は宗教を問わず使用できます。キリスト教式特有の表現としては「お花料」があります。また、御供物料は宗教を問わず、キリスト教などの場合でも使用できます。

★金額の目安
法事・法要に参列する際の、金額相場としては、5000円〜10000円程度が一般的な目安のようです。お坊さんの読経を終えた後に、お斎(法事・法要の食事)が振る舞われる場合があるため、
お斎を考慮した金額を用意するようにしましょう。

★水引

🔶仏式の場合
四十九日が明けるまでは黒白の水引を用います。忌が明けたら、黄白の水引を用います。三十三回忌、五十回忌の際には、紅白の水引を用います。

🔶神式の場合
双銀の水引を使います。

🔶キリスト教式の場合
白い封筒にお花料を納め、水引は使用しません。



🔶亡くなられた方の冥福を祈って、供養をする仏教の儀式です。
本来は、四十九日目まで七日ごとに法要がありますが、初七日と四十九日を除いては遺族のみで営まれるのが一般的です。
通常は四十九日をもって忌明けとし、この日以降は年忌法要となります。
仏教では、逝去してから四十九日の間を「中陰」と言います。
中陰の間は、閻魔大王による裁きが七日おきに実施され、極楽浄土へ旅立てるか否かの判定が下されるのが四十九日目にあたり、この日が忌明けになります。
遺族は、七日おきの裁きに合わせて法要を営み、故人の冥福を祈ります。
日取り決めの際、法要を行なう予定の日が平日となる場合には、直前の土曜日もしくは日曜日にずらすのが通例です。
通常、忌明けとは四十九日を指します。この日以降は、年忌法要になります。

● 忌日法要(きにちほうよう)
初七日(しょなぬか)7日目(葬儀当日に行なわれることが多い)
ニ七日(ふたなぬか)14日目
三七日(みなぬか)21日目
四七日(よなぬか)28日目
五七日(いつなぬか)35日目
六七日(むなぬか)42日目
七七日(なななぬか)四十九日(しじゅうくにち)
遺族や親族をはじめ、友人や知人も列席します。僧侶の読経が行なわれた後、全員で焼香やお斎を行ないます。
※この日を忌明けとするのが一般的です。 本位牌を仏壇に、そして白木の位牌を菩提寺に納める作業を行ないます。
※この日に納骨となる場合が大半のようです。

百箇日(ひゃっかにち)100日目

●年忌法要
一周忌(いっしゅうき)満1年目
三回忌(さんかいき)満2年目
七回忌(ななかいき)満6年目
十三回忌(じゅうさんかいき)満12年目
十七回忌(じゅうななかいき)満16年目
二十三回忌(にじゅうさんかいき)満22年目
二十七回忌(にじゅうななかいき)満26年目
三十三回忌(さんじゅうさんかいき)満32年目


●法事の服装



★法事に出席する際の正しい服装

🔶男性の服装

男性の服装は黒のスーツに黒いネクタイが基本
基本的には、法事・法要も葬儀と同じように黒いスーツに黒いネクタイ、ワイシャツは白がふさわしいです。
ジャケットの場合は、シングル・ダブルは問いませんが、黒調の色を選びましょう。また、ベルトや靴も黒に統一しましょう。
ワイシャツは、シンプルな無地の白シャツを選びましょう。

🔶女性の服装

女性の服装は黒のワンピースか黒いスーツ
ストッキングを選ぶ際も、上着と同じく飾りのないシンプルな黒が望ましいです。
特に夏などは暑いですが、素足では失礼にあたりますし、肌色などの薄い色のストッキングも好ましくありません。

🔶子供の服装

子供連れの場合、施主の方が「平服・普段着で」と言ってくださることもあります。しかし、やはり子供でもふさわしい服装で法事・法要へ行くべきでしょう。

🔶幼稚園児・小学生までの子供の服装

女の子は黒や紺・ダークグレーの無地のワンピース等を着用し、インナーには、白いブラウスを着るようにしましょう。また、スカートは黒・紺・ダークグレーなどの暗めでモノトーンの色味のものを
着用するようにします。下は、ズボン・パンツ類などのものよりスカートを着用する方が女の子らしくて良いでしょう。
一方、男の子は、黒・紺・グレーなどのブレザーに、インナーは白のワイシャツを着るようにしましょう。下は黒や紺のズボン等をはき、主張した色味のものは避け無難な色味に
まとめるようにしましょう。
また、幼稚園や小学校で指定の制服がある場合は制服で出席すれば問題ありませんので、その場合、わざわざ購入する必要はありません。

🔶中学生・高校生の法事での服装

中学生・高校生は、制服があれば制服で出席するのが基本です。しかし、制服のない学校や、まだ用意できていない等の理由で制服が使えない場合は以下を参考にしてください。
女子中学生・高校生は、上は白紺黒のブレザーで襟が付いたものかワンピース、下はスカートで、華美でなければ問題ないでしょう。
一方、男子中高生は、紺か黒のズボンに白いワイシャツ、上着は黒か紺色のブレザーやジャケットを着用すれば問題ないでしょう。

🔶大学生・専門学生の法事での服装

大学生・専門学生となると制服がないところがほとんどです。迷うのはリクルートスーツでいいのかどうか、という点かと思います。
リクルートスーツは確かに黒ではあるのですが、やはり喪服の黒とは別物で、しきたりに厳しい家庭や親類の場合は避けたほうがいいでしょう。
ただ、大学生であれば、成人式のためにスーツを購入されたり、友人の結婚式などに参加されるため礼服を購入される事もあると思います。
礼服や成人式に出席するときのための黒いスーツなどであれば問題ありませんので、そちらを着用して出席するようにしましょう。どちらも用意が無い場合、法事・法要や葬儀のためだけに
喪服を購入する必要はありませんので、冠婚葬祭の場で着用できる礼服を一着購入しておくと、色々なフォーマルな場面で使えるので一着持っておくと良いでしょう。

🔶乳幼児・赤ちゃんの場合の法事での服装

法事の場で、赤ちゃんの場合は、特に気にしなくて良いでしょう。慣れない場所で、さらに慣れない格好をさせると、よけいに泣き出してしまうかもしれませんし、周囲も理解してくれます。

🔶その他の注意点

バッグ・小物における注意点
バッグについては女性の場合、黒のフォーマルバッグを用意しましょう。
金や銀の光り物のついていないものがふさわしいので、取り外せるものであれば取り外しておけば無難です。
また、サテン素材などで落ち着いた黒色のサブバッグも携帯するとなにかと便利でしょう。サブバッグも、カジュアルな素材や華美なものは避け、なるべくフォーマルバッグに合うものがふさわしいと
言えます。

男性の場合は、基本的には小物は上着のポケットに入れて持ち歩き、バッグは持たないのが一般的です。
また、女性の同行者がいる場合は女性のバッグに入れて持ってもらいましょう。
女性の同行者がおらず、バッグを持つ場合にはあまり大きくないセカンドバッグ等を選びましょう。素材や色に関しては女性と同じく、華美なものでなく黒で、素材はなるべく本皮は避けたほうが
無難でしょう。

必要な小物としては、「袱紗(ふくさ)」と「数珠(念珠)」が挙げられます。お香典やお布施を包むための袱紗は、紫色のものであれば祝儀・不祝儀どちらにも使えるので一枚用意しておくと良いでしょう。
不祝儀用には、黒、灰色、紺色など寒色系のものがふさわしく、赤などは祝儀用でふさわしくありません。
数珠は、宗派によって異なりますが、一般的には略式数珠と呼ばれるものを用意しておけばたいていの場合は問題ありません。
特殊な宗派などの場合、事前に施主の方やお寺様に問い合わせておけば確実です。

🔶靴やくつ下で気をつけること

法事の際の靴は、男性はなるべく光沢のない黒い革靴が一般的です。殺生を禁じることから、本革の靴は避けるべきとされていましたが、昨今ではかなり緩和されています。
厳格な場でしたら、合皮のほうがより良いでしょう。
女性であれば黒いパンプスが一般的です。
光る金具つきのものはなるべく避け、金具は黒など目立たない色のものを選びましょう。また、ヒールが高いものや、夏であってもつま先やかかとが露出したものもNGです。
靴下について男性は、服と合わせて黒が相応しいとされます。あまり短いものではなく、くるぶしは隠れるものにしましょう。
一方、女性は黒のストッキング、子供もなるべく黒の靴下を選びましょう。

喪主の決め方



喪主とは、遺族の中で、故人さまの遺志を引き継ぎ、葬儀後も故人さまの供養を中心になって行う人です。
喪主は、遅くとも通夜の前までに決定しなければなりません。
葬儀において喪主の役割は重要なものですが、基本的に喪主は誰が務めても構わないものです。
基本は配偶者、配偶者が亡くなっていれば長男や長女、同居していた子供、ご友人という優先順位となります。
故人さまが未成年の場合は親や兄弟が喪主になることもあります。
最近では、男女の別なく故人さまといちばん近い人が務めることが多くなっています。

危篤の連絡について



肉親の死に接するのは辛いものですが、最後の別れをしてもらいたい方へ危篤の連絡をしなければなりません。
危篤の連絡を差し上げる範囲は、一般的に家族や三親等までの近親者、親しい友人や知人などになります。
ただ、こちらはあくまで目安ですので、故人さまの交際の度合いを鑑みて連絡する方を決めてください。
緊急の場合ですから電話で連絡するのがよいでしょう。その際はあわてず、こちらの名前と事情を告げます。
もし電話で連絡がつかないときは電報などを打ちます。電文は「○○キトク、デンワコウ」などと簡潔にします。

訃報の連絡について



まずは、親族や近親者に連絡をします。
連絡は通常、葬儀の日取りを決める前に行います。
危篤の際、臨終に間に合わなかった方や、危篤の連絡で駆けつけた人が帰った後に亡くなられた場合は、それらの方々にもお知らせします。
また、故人さまと親しかった友人や、勤務先や取引先、学校や関係団体などへも連絡を差し上げます。
連絡の際は、死亡日時と併せて、生前のおつきあいの感謝も述べたいものです。
通夜や葬儀を自宅で行う場合は、町内会や自治会などへも忘れずに連絡をしましょう。
ただ、肉親を亡くした際には気が動転しますので、訃報は親族や友人が分担していただくのが良いでしょう。
葬家に代わって連絡をする方は、葬家との関係を述べ、必要な内容を簡潔に伝えます。
故人さまの氏名・死亡日時・死亡場所・死因・通夜と葬儀の日時と場所などが必要となりますので、メモなどを使い、間違いのないようお伝えしましょう。
葬家に代わって訃報の連絡をする場合は、喪主と故人さまの続柄の記載が必要な場合があります。

弔問を受ける

喪主は故人さまに代わって葬儀を主催し、弔問を受けることが役目です。
雑用はあまりせず、故人さまのそばに付き添うようにしてください。
そのため、席を離れて挨拶にまわることは、あまり行いません。玄関まで見送るのは避けるのがしきたりとなっており、この際は失礼にはあたりません。
弔問には丁寧かつ簡潔に対応します。亡くなった際の状況や死因に関しては、故人さまと親しかった人を除いてはこちらから説明することは控えます。
お悔やみの言葉などに丁重にあいさつをして、 「ありがとうございます。故人もさぞ喜んでいることと思います。」
など、簡潔に礼を述べましょう。

挨拶

葬儀では、下記のように喪主が挨拶をしなければならない場面がいくつかあります。特に通夜式終了時と、告別式終了時には喪主より挨拶をする事が一般的です。
@通夜式の終了時
A通夜振る舞い時
B告別式の終了時
C仕上げ料理(精進落とし)時

挨拶例

★通夜式終了時の挨拶例文

親族を代表いたしまして、ひと言ご挨拶申し上げます。
本日はお忙しい中、ご参列くださいまして誠にありがとうございました。
おかげをもちまして、滞りなく通夜を終えることができました。
故人も皆さま方にお越しいただき、さぞ喜んでいることと思います。
ここに、故人存命中のご厚情に対しまして、心より感謝申し上げます。
なお、明日の葬儀・告別式は○時より執り行わせていただきますので、
何卒よろしくお願い申し上げます。
本日はありがとうございました。

★告別式終了時の挨拶例文

遺族を代表いたしまして、皆さまにひと言ご挨拶を申し上げます。
本日は、ご多忙のところ、遠路ご会葬、ご焼香を賜りまして、誠にありがとうございました。
おかげをもちまして昨日の通夜、本日の葬儀・告別式を滞りなく執り行うことができました。
故人も皆さまよりいただきました、格別なご厚情をさぞかし喜んでいる事と思います。
どうか今後とも、私ども遺族一同にも故人同様のご指導ご交誼(こうぎ)を賜りますようお願い申し上げ、御礼のご挨拶とさせていただきます。
本日は誠にありがとうございました。

喪主と施主の違いについて

一般的に喪主が施主を兼任することが多いのですが、本来施主とは「お布施をする主」という意味があり、喪主をサポートする役割をもっています。
現代ではあまり区別されることはないようですが、施主は葬儀の費用を負担し、お葬式を運営する責任者となっています。

葬儀の後で

葬儀を終えた後には、会葬者名簿、香典および香典帳、供花・供物帳、弔辞・弔電、会計帳簿、会葬者からの伝言などの事務作業を引き継ぎます。
また、葬儀の際支払われた金銭関係は領収書と合わせ、立て替えがあれば精算します。

お礼と挨拶回り

喪主は葬儀でお世話になった方へ、お礼の挨拶に出かけます。
直接訪問できない方には電話で済ませることもありますが、できるだけ、直接お礼にうかがいます。
相手も気疲れしている場合が多いので、挨拶が済んだら長居をせずに引き上げるのがよいでしょう。
お礼の挨拶は、寺院・僧侶、お世話になった町内の方々、故人さまの勤務先や弔辞を述べていただいた人などです。

★葬儀後の挨拶例
寺院・僧侶この度の葬儀に際しては、ありがたいお経とご法話をいただき、大変感謝しております。
故人も安らかな旅立ちになったかと存じます。これは心ばかりの御布施でございます。どうぞお納めください。
後日の法要の際は、あらためてご相談させていただきたく思っております。よろしくお願いいたします。

★お世話になった町内の方々
先日は色々お手伝いいただき本当にありがとうございました。
おかげさまで無事に葬儀一切を済ませる事ができました。車や人の出入りなどでご迷惑をおかけしたことと思います。
本当に申し訳ありませんでした。これからも変わらぬお付き合いをどうぞよろしくお願いいたします。

★故人さまの勤務先
この度はご多用中のところご会葬くださいましてありがとうございました。おかげさまで葬儀も滞りなく済ませる事ができました。
生前は大変お世話になり、深く感謝いたしております。故人も皆さまにお別れをしていただき喜んでいることと思います。
故人に代わりあらためて御礼申し上げます。



お焼香は3回繰り返します。会葬者が多いときは1回だけでもかまいません。
故人さまの冥福を祈る気持ちが大切なので、回数の決まりはありません。
また、通夜に弔問するときは、線香をあげます。線香は1本手にとり、ろうそくの火を線香に移したら、 片手であおいで火を消して立てます。
線香を2本たくときは、香炉に1本ずつ離して立てますが、宗旨によっては、線香を寝かせる場合もあります。

焼香の宗派による違い
🔶天台宗
回数については特に定めがない。
🔶真言宗
通常3回。仏・法・僧に供養すること、身・口・意の三蜜修行に精進すること、戒香・定香・解脱香といって、自らが戒律を保ち、心の静寂をもとめることができる功徳があると説明されている。
🔶浄土宗
特に定めがない。「真心をこめて一心に」で1回、「身を沈めて1回、心を清めるのに1回」で2回、「仏・法・僧への帰依」「過去・現在・未来の衆生に回向」で3回。
🔶臨済宗
回数にこだわらない。
🔶曹洞宗
回数にこだわらない。
🔶日蓮宗
通常3回。仏・法・僧の三宝供養とも、「空・仮・中の三諦」にならうともいわれる。

※以上の宗派の場合には、香を額に戴いて焼香します。
🔶浄土真宗
あくまで自分の心身を清めるためとも説明され、香を戴くことはしない。
本願寺派(西)では1回、大谷派(東)では2回とされている。線香を用いる場合には本数を気にせず、立てないで横にする。

回し焼香について



式場や時間の関係で、回し焼香が行われる場合があります。
自分の前に香炉が回ってきたら、香炉を盆ごと両手で受け取り、膝の前に置いて焼香をします。
もし、膝の前が狭い場合は、膝にのせて焼香をします。次の人に回す時は、「お先に」と小さな声で挨拶したほうがいいでしょう

★キリスト教の場合 〜献花の作法〜

仏式の通夜・葬儀にあたるものをキリス卜教式では前夜祭・告別式といいます。仏式の焼香の代わりに献花が行われます。
キリス卜教では故人は「神のもとに召される」という考え方ですので、お悔やみの言葉は避けて脇別れにお伺いしました」というような挨拶の仕方がよいでしよう。
また、会揚では信者の方々が賛美歌や祈りの言葉をささげる場面がありますが、出来る範囲で声を出してあげるのが故人へのたむけとなります。
一般的に、スタッフや信者から花を渡されたら茎を故人さま側に向けるように置きます。無宗教で献花によるお別れが行われた場合も同様に置きます。

🔶 献花の作法

右手の手のひらを上にして、左側に茎、右側に花がくるように両手で花を受け取る。
花を胸の高さに持って献花台にゆっくりと進み、霊前にー礼します。
献花台の前で花輪を時計回りに回し、茎を霊前の方に向けて献花台にささげます。
献花が終わったら数歩下がり、両手を合わせて黙祷します。向きを変え司祭と遺族にー礼して退きます。
献花の後、信者の方は十字を切り両手を組み合わせますが、一般の方は黙祷や台掌、一礼などでかまいません。

🔶神式の場合 〜玉串奉奠の作法〜

仏式の通夜・葬儀にあたるものを神式では通夜祭・葬場祭といいます。仏式の焼香の代わりに玉串奉奠(たまぐしほうてん)が行われます。
玉串奉奠には、玉串に自分の悲しみの心をのせて神に捧げるという意昧もあります。玉串とは榊の枝に「神垂」という紙片を付けたもので、これを神前に供えることを奉奠といいます。
正式には玉串奉奠の前に、手を清めロをすすぐ「手水の儀」という作法があります。
地域によっては多少作法が違う場合もあります。
手水の儀ひしゃくを取り左手、右手の順に水を掛け清めます。最後に左手でロをすすぎます。

🔶玉串奉奠の作法

遺族と神官にー礼し、右手で枝の部分を、左手の手のひらで葉の部分を受け、玉串を受け取ります。

祭壇の数歩手前でー礼し、祭壇に進みながら玉串の枝の部分を自分の方へ向ける。
祭壇の前で左右の手を持ちかえて、枝の部分が祭壇の方へ向くように時計回りに半回転させます。
玉串の枝を祭壇側に向けたまま、 玉串台に静かに置きます。
姿勢を正し、ニ礼、ニ拍手(手をたたかず音を立てない「しのび手」)、一礼をした後、
数歩下がり遺族と神官に一礼して退きます。
地域によって、玉串奉奠ではなく、洗米にて行う場合や作法が異なる場合もあります。また会場の都合上「手水の儀」を省略する場合もあります。

昔は各自がお香を持参して仏さまにたむけていたものが、今はお香料をお香典という形で包むようになりました。 お香典の金額は、血のつながりの濃いほど高額になり、親は10万円、兄弟は5万円、その他の親族は1万円位が一般的です。 会社の上司や同僚、隣人・友人などは3干円〜5千円位が多いようです。 また、新札の使用や、「4」や「9」、偶数の金額は避けることが一般的です。ただし、2千円、2万円は良しとされているようです。 お付き合いの程度も大事ですが、自分の気持ちを表すという考え方からすれば、お金よりいたわりの心が大切です。 香典は親しい付き合いでなければ、気持ちだけ包むようにし、場合によっては控えてもよいでしょう。 香典を出さなくても、真心でお焼香だけさせていただく場合もありますし、告別式には参加せず、出棺のときだけお見送りすることもできます。 気持ちだけの現金を包んだときは、「気持ちだけお包みしましたので、お返しはご辞退いたします」などのメモを現金と一緒に入れてはどうでしょうか。 法事の場合のお香典の金額の相場 あなたとの関係 あなたの年代とお香典の目安 20代 30代 40代以上 会社の上司 : 3〜5千円 3千円〜1万円 5千円〜1万円 会社の同僚や部下 : 3〜5千円 3千円〜1万円 5千円〜1万円 祖父・祖母 : 1万円 1万円〜3万円 3万円〜5万円 父・母 : 3万円〜10万円 5万円〜10万円 10万円〜 義父・義母 : 3万円〜10万円 5万円〜10万円 10万円〜 兄弟・姉妹 : 3万円〜5万円 5万円 5万円 伯父・伯母 : 1万円〜3万円 1万円〜3万円 1万円〜5万円 その他親戚・親族 : 3千円〜1万円 3千円〜2万円 3千円〜3万円 友人・知人 : 5千円 5千円〜1万円 5千円〜1万円 友人の親 : 3千円〜5千円 3千円〜1万円 3千円〜1万円 恩師・先生 : 3千円〜5千円 3千円〜1万円 3千円〜1万円 隣人 : 3千円〜5千円 3千円〜1万円 3千円〜1万円 ★新札の場合 用意していたような印象を避けるため、できるだけ古いお札にしておきましょう。それでも新札しかない場合は、一度折り目を付けてから入れると良いでしょう。 ★香典を持参するタイミングについて 初めて弔問したときに出すのが原則で、一般的には通夜に持参するのがしきたりなっていますが、通夜に弔問しない人、都合で弔問できなかった人は、葬儀、告別式のときに持参します。 臨終直後に取りあえず駆けつけた席で香典を出すのは、手回しがよすぎて喪家に不快感を与えかねません。また取り込みの最中で、香典がとりまぎれて紛失することもあり、あとで双方の行き違いで気まずい思いをすることにもなります。改めて通夜に持参するようにします。 ふくさの包み方 お香典は「袱紗(ふくさ)」に包んで持参するのがマナーです。 よくスーツのポケットからむきだしのままの香典袋を出したり、買ったときのビニ一ル袋に入れた香典袋を出すのを目にしますが、相手に差し上げるものですから、折り目や汚れのつかないように「ふくさ」に包んで持参したいものです。 お香典の出し方 ふくさに包んだお香典を取り出し、たたんだふくさの上に置きます。そして、受付の人に表書きが読める向きにして差し出します。 「このたびはご愁傷さまでございます」とお悔やみの挨拶をしながら、一礼する。 「御霊前にお供えください」と一言添えてお香典を受付の人に渡す。 記帳が済んだら再び一礼する。 御霊前に供える 御霊前に供える時は、一礼してから表書きが自分の方から読めるようにして供えます。その後にご焼香をします。 ★郵送する場合 事情があって通夜・葬儀ともに出席出来ない場含には、現金書留でお香典を郵送してもかまいません。ただし現金をそのまま入れるのではなく、香典袋に現金を入れてそれを現金書留の封筒に入れます。その際に、出席できない理由と故人に対するお悔やみを書いた手紙を同封します。 供花・供物について 霊前に添えられる供花、供物は生前に親しかった方や会社・団体関係から送られます。供物などは故人さまに捧げるものですから喪主も贈る側になります。生花、花輪(花環)は地方によって使用しない場合もありますので、遠方へ出す場合は葬儀を施行する葬儀社に確認してから出します。会場によって、大きさが合わずかえって迷惑をかける場合もあります。 また最近では辞退されるご遺族もいるので、その場合はご遺族の意思に沿いましょう。供物については、宗教によりしきたりが異なりますので、注意が必要です。



訃報を聞いたら
いつ弔問するかはお付き合いの度合いで考えましょう。
遠隔地に住んでいる近親者は、できるだけ早く駆け付け、故人さまと最後のお別れをします。
ご遺族は、葬儀の日取りを決める際に、親族の到着を考慮しますので、知らせを受けたら、こちらの到着日時を電話か電報で知らせましょう。
親友、知人の場合もすぐに駆け付けましょう。
しかし、故人さまとあまり親しくない場合(職場の関係者など)は、死去直後の取り込み中は避け、通夜や葬儀のときに弔問するようにします。
隣近所に不幸があった場合は、取り込みの最中なので長居はせず、玄関先で辞去するようにします。
日ごろ親しくしていればいるほど、あらたまった挨拶は難しいものですが、簡潔に、要領よく挨拶しましょう。

🔶すぐに弔問できない場合
仕事や都合ですぐに弔問できないときもあります。その場合は代理の人に弔問してもらうか、弔電を打っておきます。
後日、訪問できるようになったら弔問にうかがい、お悔やみの手紙を書いて追悼の意を表しましょう。
通知を受けた本人に連絡がとれない場合も、家族や同僚が代理で出向くか、弔電を打つ、お悔やみのお手紙を送るなどして、弔意を伝えます。

🔶慶事を控えている場合
訃報を受けた本人が出産間近であったり、身内の結婚式などの慶事が近日中に控えている場合には、葬儀への参列を欠席し、代わりに弔電を打ちます。
また子供を亡くしたご遺族と同じ年頃の子どもを連れての弔問は控えましょう。その場合は、葬家への思いやりとして遠慮し、心のこもった手紙などで勇気づけるようにしましょう。

🔶他の友人への連絡について
ご遺族は取り込んでいますし、故人さまと友人のつながりをご遺族がよく知らなかったり、連絡先がわからないということもあります。
ご遺族に代わって友人や知人に連絡をしてあげることも必要です。
どの友人まで知らせるかの判断は難しいもので、それほど付き合いがないのに知らされて、戸惑うこともありますので適切な判断をしましょう。

🔶駆け付けるときの服装
地味なら平服でも失礼になりません。
あまり派手な化粧は避け、華やかなアクセサリーは外すくらいの心遣いで充分です。

通夜参列のマナー



通夜の知らせを受けた場合、時間と場所を確認します。
駅から式場までの間に道案内をしている人を見かけたら、軽く会釈をしましょう。できれば開式10分くらい前には到着するようにします。
やむを得ない事情で遅れてしまった場合は、お詫びを述べた後にお参りをさせてもらいます。

🔶一般的な仏式通夜の流れ

1 受付
式場に到着したら受付をします。
深く一礼した後、袱紗(ふくさ)から香典を出し、芳名帳に記入します。

2 参列者着席
式場内へ着席を案内されたら、指定された場所に座ります。

3 開式の辞(僧侶入場)
僧侶をお迎えします。数珠を持参します

4 読経

5 ご焼香
ご遺族・ご親族のご焼香に続き、案内があったら順番に焼香します。
焼香後は通夜ぶるまいの席に移動する場合と、自席に戻る場合があります。
ご焼香の後に僧侶が法話・説教をすることがあります。

6 閉式(僧侶退場)
僧侶を見送ります。数珠をしまいます。

7 閉式後
通夜ぶるまいの席に移動します。故人さまとの最後の食事の席になりますので、少しでも箸をつけましょう。
会葬御礼状と返礼品を受け取り、タイミングを見て退席します。

葬儀・告別式参列のマナー



本来「葬儀」は宗教儀礼、「告別式」は社会儀礼に分かれていたものです。
葬儀式は故人さまを送る儀式であるのに対し、告別式は皆でお別れをする場になります。
葬儀・告別式を一緒に行っているように見えても、前半は葬儀式、後半は告別式とし、お経や作法を区別して行っていることも多いです。
参列する時は、開式10分くらい前までには到着し、途中で退出せずに出棺までお見送りするようにしましょう。

🔶参列時の流れ

1 参列時
開式10分くらい前までには到着し、途中で退出せずに出棺までお見送りするようにしましょう。

2 受付
式場に到着したら受付をします。深く一礼した後、袱紗(ふくさ)から香典を出し、その後、芳名帳に記入します。
通夜でお香典をお渡しした場合、記帳だけ行います。携帯電話は電源を切るかマナーモードにすることを忘れずに。

3 参列者着席(10〜5分前)
式場内へ着席を案内されたら、指定された場所に座ります。席がない場合は、邪魔にならない場所に立って待ちます。

4 開式(僧侶入場)
僧侶をお迎えします。数珠を持参していたら手に持ちます。

5 弔辞・弔電の紹介
弔辞拝受、弔電の紹介。

6 読経・焼香
案内があった場合、順番に焼香をします。
焼香後は自席に戻る場合と、一旦退場して別の場所で待機する場合があります。

7 喪主あいさつ
式中、もしくは出棺前に喪主か親族代表の挨拶があります。

8 閉式(僧侶退場)
僧侶を見送ります。数珠をしまいます。

9 お別れの儀
出棺前に、故人さまと最後のお別れをします。棺の中にお花や副葬品を納めます。

10 出棺
火葬場へ出発します。故人さまと親しい間柄の場合、希望すれば同行できることもあります。
移動するための車や火葬場の控室の手配、食事の手配などがありますので、前日までに遺族に申し出ておきましょう

🔶弔辞

弔辞とは、亡くなった人を弔う言葉で、霊前に捧げるものです。
弔辞を頼まれたら受けるのがマナーです。
人前でのスピーチが苦手という人もいるでしょうが、依頼されたということはご遺族に信頼されているということでもあります。
故人さまの供養のためにも、よほどの事情がない限り快く引き受けます。



通夜・葬儀の香典のお札の入れ方ですが、とにかく諭吉さんが見えないように見えないように入れることが正解です。

中袋の面からお札を出したときに、お札は裏を向いています。

さらに肖像は上を向いているのではなく下側を向いているようにします。

肖像がとにかくなかなか出てこないような入れ方が、通夜・葬儀の香典のお札の入れ方になります。



1 、中袋の表の中央に、金額を書いて、裏の左側に住所と氏名を書く。



2、中袋の表には何も書かず、中袋の裏の右側に金額を書いて、左側に住所と氏名を書く。

こういう2つの書き方があります。

金額は、「金〇〇圓」と書きます。

ちなみに基本的に、こういう香典の数字というのは、難しい漢数字を使います。

なぜ難しい漢数字を使うかと言うと、例えば一万円と書くと上に1本線を足せば二万円になりますね。

こういう風に不正が起きないように、難しい漢字を使う方がいいということで、難しい漢数字が香典では使われるようになったようです。

香典に書く時の漢字

1→壱

2→弐

3→参

5→伍

7→七(ごくまれに漆)

8→八

10→拾

100→百

1000→仟または阡

10000→萬

その他→円を圓と書くこともあります。

     

🔶4人以上で香典を出す場合、表に代表者名を書き、その左に小さく他3名など書きます。

そして、中袋に香典を出した人の名前、住所、出した金額を書いた紙を入れておきます。



🔶夫婦で香典を出す場合は、真ん中に夫の氏名、夫の名前の左側に妻の名前を書きます。

       

🔶1人で香典を出す場合は、外包の中央上に表書きを、中央の下に名前をフルネームで書きます。

🔶2人で香典を出す場合は外包の中を上に表書きを、中央の下に2人連名で名前を書きます。どちらもフルネームです。右になる人が目上の方、左上下の人になります。

🔶3人で香典を出す場合は1番真ん中に代表者の名前を書いて、その左に連名で書いていきます。一番左が一番目下の人の名前になります。



通夜・葬儀の表書きは「御霊前」「御香典」です。

★その中でも一般的なのが「御霊前」です。

これはほとんどの宗派で使ってもOKです。キリスト教などでも大丈夫です。

★御霊前が使えないのは「浄土真宗」と「曹洞宗」だけです。

浄土真宗では亡くなったらすぐお浄土に行くので、すぐ仏になるという考えなので、この世で霊体でいる期間がないので通夜・葬儀でも「御仏前」と書くのが正式です。

禅宗である曹洞宗にはお浄土という考え方がないので、極楽浄土に成仏される期間もないということで「御仏前」と書きます。

浄土真宗と曹洞宗以外の宗派は四十九日までは「御霊前」、四十九日の後にする法事では「御仏前」と表書きが変わる宗派がほとんどです。

ちなみに、御仏前でも御佛前でもどちらでもOKです。

ただ、通夜・葬儀でお参りに行く時はどんな宗派で通夜・葬儀を行うかは分からないものです。そういった場合は浄土真宗や曹洞宗でも「御霊前」の表書きで大丈夫です。

🔶 キリスト教の表書きは?

「御花料」(プロテスタント)、「御ミサ料」(カトリック)などです。「御霊前」でもOKです。

🔶 神式(神教)の場合は、

「御玉串料」「御榊料」「御神饌料」などと書きますが、「御霊前」でもOKです。



水引:紅白か金銀の蝶結び 熨斗:つける
表書き:御受賞御祝、祝御受賞、祝芥川賞、等
受賞には、国から授けられる受章と、日常的な芸術、スポーツなど各種団体などの分野で受ける賞の受賞があります。

日本には、国家・社会に対して功労があった人へ授与される栄典である春秋叙勲・春秋褒章があります。

春秋叙勲・春秋褒章時に主に授与されるものが、勲章・褒章です。

毎年、春の叙勲・褒賞は4月29日(昭和の日)

秋の叙勲・褒賞は11月3日(文化の日)に行われます。

★叙勲・褒章



天皇の国事行為により国から認められた人のみに与えられる稀少で栄誉あるものです。

◆叙勲 

長年にわたり公共や社会に功労があった70歳以上または、所定条件に該当する55歳以上に勲章を与えること

◆褒章 

学問や文化などの分野において優れた行いや功労のあった人に褒章(の記章)を与えること

★ 勲章の種類

大勲位菊花章 (だいくんいきっかしょう)

桐花大綬章 (とうかだいじゅしょう)

旭日大綬章又は瑞宝大綬章を授与されるべき功労より優れた功労のある人に与えられる勲章

旭日章 (きょくじつしょう)

功績の内容に着目し、顕著な功績を挙げた人に与えられる勲章(※6段階に分けられている)

瑞宝章 (ずいほうしょう)

公務等に長年にわたり従事し、成績を挙げた人に与えられる勲章(※6段階に分けられている)

◆ 受賞 

美術、工芸、音楽、演劇、舞踊などの功績者に対して授与される「日本芸術院賞」「日本芸術院恩賜賞」

また重要無形文化財指定や、民間団体の設ける賞たとえば文学の芥川賞、直木賞など、芸術や科学の分野に限らず広い分野で設けられています。

★ 知っておきたいお祝いマナー

もし、身の周りに叙勲・褒章を受けるという方がいるとすれば、滅多にない名誉な出来事ですので、すぐにでもお祝いをしてください 

その賞の内容を知った上でお祝いすることが、大切なポイントです。

◆ お祝いの相場は

相場 5,000円〜 (※身内は、それよりも多く包むのが一般的)


★ 祝賀会に参加する場合

祝賀会に招待された場合は、婚礼同様お祝い金を用意しましょう。

ただし、会費制の場合は、会費がお祝いの代わりとなりますので、準備の必要はありません。

参加するときの服装に関しては、参加する祝賀会の規模や会場に合わせ不安があれば主催者に確認してください。



■開業・開店祝いの準備

新店舗をオープンする場合

1 お知らせする人をチェックする お知らせする相手をリストアップします。

2 お招きする人をリストアップする 祝賀会にお招きする相手を、リストアップします。

3 お祝いの会の日時を決定する

4 会場を決定する

5 予算を決める 以下を参考にし予算を決めます。

・会場は別会場か、新店舗・新社屋を利用するか、

・費用は会社負担か、参加者負担か、

・飲食を伴うかどうか

6 案内状、または招待状を作成する

7 お祝いの会のプログラムを決める(全体の流れを決める)

8 司会、挨拶・スピーチを依頼する人を決める

9 乾杯の音頭を依頼する人を決める

10 会場の飾り付けを準備する 一般的な飾り付けの例としては、横断幕、紅白幕などがあります。

樽酒の鏡開きをはじめ、テープカットなどの催しや、開店記念のイベントなどを盛り込むこともできます。

11その他の準備 場合によっては進行表(式次第)を掲示します。

■開業・開店祝いの祝賀会の流れ

1)開会宣言 ・司会者が開会を宣言します。

2)挨拶

3)来賓の祝辞 ・来賓にスピーチをお願いする場合には、あらかじめ依頼しておくのが望ましいでしょう。

4) 乾杯の用意

5) 乾杯の音頭 ・出席者のうちで2〜3番目くらいの立場にある方などが望ましい人選だと思われます。

6)食事・懇談

7)オプション

万歳三唱や、手締めなどが行なわれる場合もあります。 それぞれ、あらかじめ音頭をとる人を決めておく必要があります。

8)謝辞

9)お開き ・司会者が閉会を宣言します。


■開店・開業祝いを贈る場合ののし、熨斗袋・お祝い金額の目安

・開業祝いのプレゼント(贈り物)はオープン当日か、披露パーティーまでに贈ります。できれば相手の希望の品を聞くと良いでしょう。

・何を贈ろうかと贈る品物に迷った場合には、お花などが無難です。

◎のしの表書き

祝御開店、祝御開業、御開店御祝、 祈御発展、御祝など
◎のし のしはつける。

◎水引き 紅白の蝶結びのものを使います。

2.開店祝い、開業祝いのお祝い金額のめやすと相場

知人の場合のお祝いの相場は、一般的には5千円〜1万円。友人の場合、1万円〜3万円。仕事上の取引先の場合は、1〜5万円。兄弟、姉妹、両親などの場合の相場は2〜5万円。

平均は2万円強。

★開店・開業祝いに品物を贈る場合は何がよろしいでしょうか 

お花や植物をお贈りする場合は贈り先様の業種や好みに合わせた「鉢植え」「縁起物」が定番です。



開店・開業祝い には「縁起物」として、「お店が根付く」といった意味をもつ胡蝶蘭・観葉植物などの鉢植えをお贈りするのが一般的です。

胡蝶蘭は「幸福が飛んでくる」という花言葉や店内や店外を華やかに彩る豪華な美しさと、手入れのしやすさ・香りや花粉が ほとんど出ないなどの理由から、会社や飲食店のお祝いにとてもよく選ばれています。

また、観葉植物(グリーン)も、インテリアとしての役割はちろん、目に優しいグリーンが癒し効果をもたらしてくれるため、オフィスはもちろん、ネイルサロン・アロマ・美容院・マッサージ店・カフェ・病院など幅広い職種に人気です。



名入れ札(立て札)で、店内外へしっかりとアピールできます。また、鉢植えギフトは、しっかりと贈り主様のお名前(会社の場合は社名・役職・個人名)の入った 「名入れ札(立て札)」をお付けするのが一般的です。名入れ札は、贈り主を知らせる役割はもちろんのこと、広告・宣伝効果も期待できます。

花・観葉植物の特徴 

白い胡蝶蘭は、
新しいスタートを意味します。オフィスから店舗までどのような場面にも安心してご利用いただけます。

ピンク胡蝶蘭は 
お店やオフィスを優しく華やかな印象にしてくれます。女性の活躍する職場にもおすすめです。

イエローの胡蝶蘭は 
温かみがあり元気な雰囲気で場を明るくしてくれます。飲食店などへ印象的な贈り物をされたい方に最適です。

グリーンの胡蝶蘭は 
目にも優しく癒し効果もあるグリーンは、どんなシーンにもマッチしてくれます.

花以外ですと、 「商売繁盛」の気持ちを込めて「招き猫・花瓶」などの華やかな置き物や「時計・食器」などの実用的なインテリアがよく選ばれています。

★開店・開業祝いのタブー

火災や経営不振を連想させるマイナスイメージはNG。
「火事・火災」を連想させる、赤い色・灰皿・ライター・アロマキャンドル・暖房器具や椿の花などの赤い色の花や、「傾く・倒れる・壊れる・落ちる」を連想させる鳥の絵画などは避けたほうがよろしいかと思います。



■長寿お祝いの名称とその由来
長寿のお祝いは、昔から数え年の誕生日に祝うものでしたが、最近では満年齢で祝う人も増えているようです。
ただし、還暦だけは必ず満60歳、数え年61歳でお祝いします。
長寿祝いには、それぞれ名前がついています。

下記に一覧早見表をご紹介します。
61歳 還暦 生まれた年の干支にもどることから。(数え61歳。満60歳で祝う)
70歳 古稀(古希) 唐の詩人・杜甫の「人生七十古来稀なり」に由来。
77歳 喜寿 「喜」のくずし字の、七十七と読める形から。
80歳 傘寿 「傘」のくずし字の、八と十を重ねた形から。
88歳 米寿 「米」の字をくずすと、八、十、八に分かれるので。
90歳 卒寿 「卒」のくずし字「卆」が九十と読めることから。
99歳 白寿 「百」から横線の「一」を取ると「白」になるので。
100歳 紀寿 100年=一世紀を表わす「紀」から。
108歳 茶寿 「茶」の字をくずすと、二十と八、十、八に分かれるので。
111歳 皇寿

■長寿お祝いの色
長寿祝いの際に、赤いちゃんちゃんこを贈ることで知られているのが還暦のお祝いですが、その他の長寿祝いにも色があります。

61歳(満60歳) 還暦 赤、朱
70歳 古稀(古希) 紫、紺
77歳 喜寿 (一部に、紫、紺色という説があります)
80歳 傘寿 (一部に、黄色という説があります)
88歳 米寿 黄
99歳 白寿 白

■長寿のお祝いをする
長寿のお祝いに何を贈るべきか、という決まりは特にありませんが、地味な物は避けましょう。
•還暦だけは必ず数え年61歳、満60でお祝いをします。
他の長寿祝いについては本来は数え年で祝うものでしたが、現代では満年齢で祝う人も増えています。
•贈り物は、還暦では昔から赤のちゃんちゃんこ、あるいは、赤の入った衣類などが良く言われていますが、還暦に限らず本人の趣味に合った実用品が喜ばれます。
多少、実際の年齢よりも若々しい、派手めの物を選びましょう。
•スケジュール…お祝いの日は誕生日の他、敬老の日などの祝日でもよいでしょう 贈り物は前日には届くようにします。
•長寿祝いの贈り物にはおいわいのしをかけましょう。
◎長寿お祝いをいただいた場合のお返しは、茶器などの記念品を配ることが多いようです。
◎贈り物だけでなく、家族でのお食事会、家族旅行などのアイディアがあります。
◎長寿お祝いのなかでも、還暦は、まだまだ現役の年齢です。急に年寄り扱いをしたりせず、誕生日に還暦のお祝いも兼ねて贈り物をする 位の方が喜ばれるかもしれません。

長寿祝いと祝儀袋



水引:紅白か金銀の蝶結び熨斗:つける
表書き:賀華甲、祝古希、喜寿御祝、寿米寿



新築祝いとは
新しく家を建てたり、マンションを購入して引っ越した場合の お祝いのことを言います。
親族、知人、友人が自宅や事務所を新築したときに家内が安全で末永く繁栄が続くよう、お祝いの気持ちを贈るものです。
家を新築することは人生において最も高価な買い物と言われています。
なので、ぜひとも盛大にお祝いしてあげたいものです。

新築祝いと祝儀袋


新築のお祝いには、何度あっても嬉しいという意味を持っている蝶結び(花結び)の水引がかかったご祝儀袋を選びます。
新築の購入はそうそう頻繁にあるものではありませんが、一度きりにしたい事柄でもなく、何度あってもお祝いをしたいことですので蝶結び(花結び)を使用します。
蝶結びはすぐに解けたり結んだりできます。
そのことから何度あっても良いお祝い事には蝶結びが使われる事になりました。
花結びは蝶結びが変化したもので基本的には蝶結びの一つです。

新築祝いの表書き

新居のお祝を贈る時には 祝御新築  御新築祝  御新築祝  御新築御祝
新築マンションを購入したお祝を贈る時には御祝
新社屋やビル、庁舎や体育館などの建物を新築したお祝を贈る時には落成祝い

新築祝いの相場



個人的にお付き合いのある方には、若干多めに贈るのが良いでしょう
両親:10,000円〜50,000円
親戚:10,000円〜50,000円
兄弟:10,000円〜30,000円
友人・知人:5,000円〜10,000円
勤務先同僚:5,000円〜10,000円
近所:5,000円〜10,000円

お金の用意
まずは新札を用意しましょう。いかなるお祝いにしても、お祝いする気持ちと礼儀を込めて包むお金は必ず新札にします。
新札でご祝儀を用意するのには「この日のために用意しました」という気待ちを表すためという理由も含まれいるため、できるだけ新札で用意できるように努めましょう。

タブーな贈りもの
ストーブ、コンロ、ライターなど、火災にまつわる品物を新築・引越し祝いに贈るのはタブーとされています。
また、花を贈る場合も赤色の花は 火事を連想 させるため避けましょう。
観葉植物や幸福の木などは育てやすく人気があり、新築祝いのプレゼントとしておすすめです。



結婚記念日の祝儀袋と表書き
水引:紅白の蝶結び 熨斗:つける
表書き:祝結婚記念日、金婚式御祝、祝銀婚式、金婚式記念(結婚後の年数で名称を変える)

結婚記念日


大きな節目となるのが金婚式 銀婚式です。
この日は家族で祝宴を開いたり、子供たちが両親に夫婦二人の旅行や、コンサートのチケットをプレゼントをするなど、夫婦の趣味に合わせて工夫しましょう。
子供だけでなく、親戚や第三者を招いて小パーティーを開く場 合もあります。

★結婚記念日が習慣となったのは
明治時代以降に欧米から入ってきた習慣で、欧米には、髪のように破れやすかった二人の絆が、ダイヤモンドのように強くなることを願い結婚1年目の紙婚式から10年までの毎年、その後は5年ごとにお祝いをし60年目のダイヤモンド婚式まで、結婚した日を祝う習慣があります。

■結婚記念日の名称とプレゼントのアイディア

年数    : 名 称   : プレゼント例
1年目   : 紙婚式    : アルバムなど紙製品
2年目  : 綿婚式    : 木綿のハンカチやコットンのテーブルクロス
3年目  : 革婚式    : バッグやベルトなど皮革製品
4年目  : 花婚式、    : 書籍婚式 花束や詩集
5年目   : 木婚式    : 木製のフォトフレーム。観葉植物。
6年目  : 鉄婚式、    : 砂糖婚式 鍋や菓子など
7年目   : 銅婚式、    : 毛織物婚式 マフラーやひざかけなどの毛織物
8年目  : 青銅婚式    : アクセサリーなど
9年目   : 鉛婚式、    : 陶器婚式 コーヒーカップなど
10年目 : 錫婚式、    : アルミ婚式 錫製品、装飾品など
11年目 : 鋼鉄婚式    : 鋼鉄製品、鍋など
12年目 : 絹婚式、    : 麻婚式 スカーフ、パジャマなど絹製品
13年目 : レース婚式    : 手袋、ショールなどレース製品
14年目 : 象牙婚式    : ネックレス、夫婦箸など象牙製品
15年目 : 水晶婚式    : 指輪など水晶やクリスタル製品
20年目 : 磁器婚式    : 食器、置物など磁器製品
25年目 : 銀婚式    : スプーン、銀食器など銀製品
30年目 : 真珠婚式    : 装飾品など真珠製品
35年目 : 珊瑚婚式、    : ひすい婚式 珊瑚、ひすい製品
40年目 : ルビー婚式    : 装飾品などルビー製品
45年目 : サファイア婚式   : 装飾品などサファイア製品
50年目 : 金婚式    : 装飾品など金製品
55年目 : エメラルド婚式    : 装飾品などエメラルド製品
60年目 : ダイヤモンド婚式   : 装飾品などダイヤモンド製品
75年目 : プラチナ婚式    : 装飾品などプラチナ製品


一生に一度の晴れの日、成人式は人生で重要な節目です。
冠婚葬祭の「冠」は成人式を表わしていますから、「成人になる」ということが、古くからどれだけ重要視されていたかがわかります。
奈良時代以降、数え歳で12〜16歳の男子が行った「元服(げんぷく)」という儀式が成人式にあたります。
髪を大人の髪型に結い、服装も大人のものへと改めました。
また、幼名から新しい名に切り替えたり、冠をつけたりしました。
江戸時代には、貴族のみが儀式を細部まで継承し、その他の人々は前髪を切り落とすだけに簡略化されていったようです。
また、元服は、加冠(かかん)、初冠(ういこうぶり)とも呼ばれていました。
現在と同じ20歳で成人式が行われるようになったのは、戦後のこと。地域の新成人が一堂に会して行う成人式の発祥は、1946年、埼玉県の現 蕨市で開催された「青年祭」だと言われています。
それが全国に広まり、1949年の1月15日が「成人の日」と制定されました。
成人の日を1月15日に定めたのは、元服の儀を新年最初の満月に行う風習があり、それに由来しているためです。
とはいえこれは旧暦の話ですから、現代の暦では、1月15日が満月とは限りません。
その後、西暦2000年の祝日法改正(通称:ハッピーマンデー法)により「成人の日」は1月の第2月曜日に変更になりました。
成人式の日、街は振袖姿の若い女性でにぎわいます。
その光景は美しく華やかで、見ているだけでお祝いムードを楽しむことができます。
でも、どうして成人式に女性は振袖を着るのでしょうか?
振袖は若い女性の礼服

留袖、付け下げ、訪問着、振袖などさまざまな着物があり、時と場所により、着るものが異なります。
未婚の若い女性の礼装は振袖となります。
成人式は、冠婚葬祭の「冠」にあたる儀式、つまり「最も格式の高い場」です。
ですから、女性は礼装となる振袖でのぞむのがマナーというわけです。
成人祝いの祝儀袋と表書き


水引:紅白の蝶結び・熨斗:つける

表書き:祝御成人、御成人御祝

■成人式の服装について
成人式と言えば、女性は振袖、男性はダークスーツにネクタイという服装が最も一般 的です。
ここ数年は男性の羽織袴姿も良くみかけられるようになりました。
現代では未婚女性のみが着用する振袖ですが、もともとは「留袖(とめそで)」に対して、袖の長い着物を「振袖」と呼び、元服前の男女が着用する衣装でした。

●男性の服装
ダークスーツ(紺、グレー、黒など)のスーツにネクタイという服装が最も一般 的です。
最近は男性の羽織袴姿も良くみかけるようになりました。
●女性の服装
成人式に出る女性はほぼ100%近く振袖のようです。スーツやワンピース、ドレスの女性も少数ですがいらっしゃいます。
振袖は、未婚の女性の正装としてフォーマルな場面での着用が可能です。
披露宴や、お色直し、各種パーティー、結納の儀など、多くのシーンで活用できます。
また、そで丈を短くして「訪問着」に仕立て直すといったこともできます。
長く大事に着られる柄、色調のものを選ぶと良いでしょう。 また、振袖というと高額なイメージが強いのですが、わざわざ新調しなくても、お母様、お祖母様から受け継いだ伝統的な絵柄のものをお召しになるのも素敵だと思います。
あるいは、レンタル(貸衣装)で賢く安く済ませることもできます(レンタルの利用も増えてきているようです。
レンタルの衣装は、写真館などでも借りることができます。草履やバッグ、足袋まで一式揃えられるところもあるようです。返却の仕方やクリーニングなどもチェックしてから利用しましょう。

■振袖での所作・マナー(着物での所作・マナー)
ふだん、着物を着る機会が少ない女性でも、日本の伝統的な衣装である着物を着ることで、晴れて大人になった喜びに身が引き締まることでしょう。
着物を着ると歩き方や所作も女性らしくなります。着物が初めてという方も基本的な動作だけは頭に入れておきましょう。

●振袖・着物での所作 ポイント
車の乗り降り ・袖を二枚まとめて左手で持ちます。座席シートには、まずお尻が腰掛けるようにし右前裾(すそ)がはだけないように右手でおさえながら、身体を回転させて腰掛けます。
袖は膝の上に置いておきます。
美容院や成人式の会場への送り迎えのときに車やタクシーなどに乗る機会が多いと思います。
ヘアメイクがくずれないようにドアの高さにも注意して下さい。
イスにかける ・袖を二枚かさねて左手で持ちます。イスには、まずお尻が腰掛けるようにし、右前裾(すそ)がはだけないように右手でおさえながら、しずかに腰掛けます。
足は膝から下を垂直よりもやや後方に引きつけます。
帯がくずれますのであまり深く腰掛けないようにします。小ぶりのイスのときなどは、腰の後ろにバッグを置くと良いでしょう。
腰をおろしたら、袖が汚れないようにひざの上に重ねておきます。さらに、汚れないようにその上にハンカチを広げます。
グラスを持つ時は、高くかかげると袖口が開いて見苦しいものです。
パーティーの席などで乾杯をする場合は、右手でグラスをもち、左手で袖口を押さえます。
階段の昇り降り ・袖を二枚まとめて左手で持ちます。右前裾(すそ)がはだけないように右手でおさえながら、ゆっくりと昇り降りをします。
草履を履き慣れない場合は、階段にさしかかる前に一旦立ち止まり、少し深めに草履を履くことをおすすめします。意識してゆっくりと動作しましょう。

■成人祝いの品物について(成人式のプレゼント)
成人式といえば、市区町村で記念式典が催されるようですが、こうした公の式典に出席する以外にも、たとえばご家庭でお赤飯を炊いてお祝いをしたり、レストランで家族みんなでお祝いのお食事はいかがでしょうか。また、ご本人だけで撮る記念写真のほか家族全員で写す記念写真の撮影なども想い出になります。
贈り物(プレゼント)をする場合は、スーツ、ネクタイ、時計、アクセ サリー、バッグなど、これから役にたつものが良いでしょう。
■成人祝いの相場について
成人式の日は毎年1月第2月曜日です。お祝いを贈る場合には、前日までまたは当日の午前中に渡します 。
成人のお祝いの相場
本人との続柄によって異なります。下記は一般 例です
◎両親:1万円〜5万円
◎おじ、おば:1万円〜3万円
◎祖父、祖母:1万円〜5万円
◎知人その他:5千円〜1万円

入園祝い

幼稚園や保育園の入園、成長過程で親から離れて生活を送る第一歩になる入園に際してお祝いしたいと思うのが人の心だと思います。
★入園祝いにはいくら包むものでしょうか ?
★またどんなものを贈るものでしょうか ?
入園祝いは、子どもの成長を祝うお祝いの一つです。
幼稚園、保育園への入園は小さかったお子さんが親の手を離れて先生やお友達と時間を過ごす最初の体験となります。
身内だけでお祝いするのが普通なので、とくに親しい場合以外は友人から贈る必要はありません。
入園祝いは、入園が決まったらなるべく早く、遅くとも入園式の2〜3週間前までに贈るようにします。
●入園祝いの金額の相場とプレゼントのアイディア
入園祝金…現金を贈る場合の金額は3,000円〜10,000円位が中心となります。
おつき合いの深さ、血縁の深さ、贈り主の年齢によって異なります。
品物を贈るときは、他の人からの贈り物と重なりやすい物は避けます。
同じものを2つもらってしまうと、受け取った相手も困るものです。
重ならないようにあらかじめ希望の品物を聞いてもよいでしょう。
入園祝いの場合には、幼稚園や保育園で使うものの他に、これからの発育や成長に役立つものが喜ばれます。
また入園式に着る洋服や靴、幼稚園指定の園服(指定服、制服)一式をプレゼントするのも良いでしょう。
学習机は、小学校入学の際に贈ることが多いようです。
現金をはじめ商品券や図書券、さらに文具券など、自由に使えるものも嬉しいようです。
●幼稚園入園祝いのヒント
現金、商品券、クレヨン、靴、名前入り文具、文具券、図書券靴、制服 など

入学祝い  

★何を贈ろうか?
★いくらにしようか?
品物を贈るとなると選ぶのが難しいので、お金で贈る方が多いと思います。
一般的にいくらくらい贈るべきなのでしょうか?
入学祝いを贈る時期
入学が決まってから、入学式の 2〜3週間前までに贈ります。
入学祝金
現金を贈る場合の金額は5,000円〜10,000円位 が中心
おつき合いの深さ、血縁の深さ、相手の年齢によって異なります。
品物を贈るときは、他の人からの贈り物と重なりやすい物は避けます。
同じものを2つもらってしまうと、受け取った相手も困るものです。
ランドセルや学習机は、両親や祖父母が贈るこ とが多いので、重ならないようにあらかじめ希望の品物を聞いてもよいでしょう。
中学校以上なら、現金をはじめ 図書カードや文具券など、自由に使えるものも嬉しいようです。

お祝いの祝儀袋の表書き

「入園御祝」  「祝御入園」  「御入園御祝」  「御祝」 「入園おめでとう」 
「入学御祝」 「祝御入学」 「御入学御祝」
 など
紅白の蝶結び の水引きのものにします。


子供の成長を祝うイベントの代表的なものに、「七五三」があります。
もうすぐ3歳、5歳、7歳になる子供を持つママは、時期が近づいてくると、準備をしなくてはと考えます。
🔶そもそも七五三ってどんなお祝いなの ?
🔶当日はなにをしたらいいの ?
七五三 とは、子供の成長を祝い、これからの健康を願う日本の伝統的な行事です。
昔からの習わしでは、それぞれ数え年で、男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳 でお祝いをします。
七五三は、もともと関東圏でのみで行われる地方風俗でした。
昔は乳幼児の死亡率が高く、3歳まで健康に育つことが大変な喜びであったと同時に、3歳で言葉を理解し、5歳で知恵がつき、7歳で永久歯が生えてくるといった発育の節目であることから七五三のお祝いが行われてきたといわれています。
現在の七五三では、住んでいる地域や各家庭で違いはあるものの、近所の神社や有名な神社に出向いて、参拝や祈祷をします。
その後、写真館やフォトスタジオで写真撮影をしたり、レストランやホテルで食事をしたりします。
七五三を祝う年歳はそれぞれ数え年で、男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳です。
七五三をお祝いする歳が男の子と女の子で異なるのは、その年にお祝いをする意味が大きく関係しています。
★3歳
男女ともにお祝いします。
江戸時代には子供の産毛を剃っておくと将来は健康な髪が生えてくると信じられていたため、男女問わず3歳までは坊主にする習慣がありました。
3歳になり髪を伸ばし始める「髪置きの儀(かみおきのぎ)」を行います。
★5歳
男の子のお祝いをします。
人生で初めて袴(はかま)を着用する「袴儀(はかまぎ)」を行います。
袴は、江戸時代の武士が公の場で身に着ける盛装(せいそう)であったことから、この儀式は幼い少年にとって、男として社会の一員になるという意味合いを持っています。
正式な晴れ着としては袴を着用するほかに、紋付と羽織も着用します。
★7歳
女の子のお祝いをします。
3歳まで着物を結んでいた付け紐(つけひも)から、成人と同じ丸帯(まるおび)をつけ始め、女性として社会の一員となるという意味合いを持っています。
七五三は、本来は11月15日に行われる行事です。
11月の満月の日である15日に、氏神への収穫と子供の成長に感謝を捧げ、加護を祈るようになったことが、七五三の日の由来といわれています。
明治の改暦以降は、新暦の11月15日に行われるようになりました。
★千歳飴とは
子供の健康と長寿を願う飴菓子で七五三の祝いに用いられるものです。
棒状の形状をした細長い飴が、鶴、亀、松竹梅といった縁起物が描かれた袋に入っていす。
長さは「長く伸びる」にちなんで、子供の長生きを願う気持ちが、紅白の色には、これまで無事に育ったことを祝う気持ちがこめられています。
千歳飴の由来に関しては2つの説があり、1つは浅草の飴売り七兵衛が、元禄・宝永年間に売りはじめたという説。
もう1つは、1615年に大阪の平野甚左衛門が江戸に出て売りはじめたと言う説があります。
★七五三のお参りと服装・衣装・着物
🔶父親の服装
スーツが一般的です。
🔶母親の服装
和服(着物)の場合は、留袖をはじめ、訪問着などが正式です。
洋装(洋服)の場合は、ワンピース、スーツなどです。
🔶子供の服装
七五三というと以前は着物が大半でしたが、最近の傾向としては、洋服でお祝いする家庭も増えています。
洋服の場合新調するのでしたら、男の子ならスーツ、タキシードなど。女の子ならドレスやワンピースなどです。
和装の場合(着物・和服)
[三歳]
男の子
羽二重熨斗目模様の 紋付二枚かさねに、へこ帯、袖無し羽織り。草履は、鼻緒のついた平底のものを。
女の子
晴れ着に帯を結ばず、袖無しの朱色の「被布(ひふ)」を羽織の代わりに着用します。
草履は甲掘(こっぽり)など。
[五歳]
男の子
羽織袴のスタイルが基本となります。
黒の紋付き袴や、あるいは男の子らしい勇壮な絵柄の入った絵羽織りに袴といういでたちです。
剣や扇子も身につけます。
[七歳]
女の子
振袖に肩あげという、本格的な衣装となります。帯も袋帯を用います。帯揚げ、志古着など、子供らしく華やかに着飾ってあげて下さい。
写真館などでは、写真撮影用の衣装をレンタルで利用できます。

表書きの書き方
神社での正式参拝(祝詞をあげてもらう・祈祷やお祓いを受ける)の際に神社に渡す謝礼は 
白赤の蝶結びの熨斗袋 に入れて用意をします。
白封筒でもOKです。
「御初穂料」「御玉串料」「御礼」 などです。
神社への謝礼(神社に支払うお礼)は、上段に「御初穂料」あるいは「御玉串料」とし、下段は子供本人の名前にします。
地方によっては、子供の年齢(七歳、五歳、三歳)を名前の横に書き添えます。
金額の目安は五千円前後です。
★参拝のしかた
神社に参拝する場合は、手洗い所で、手を洗い、口を浄めます。
まず鈴を鳴らしてから、二礼、ニ拍手、一礼をします。
★初穂とは

その年の最初に収穫された稲、穀物などの農作物をさし、神仏への捧げものとして毎年奉納されていました。
現在ではその代わりとする金銭を初穂(はつほ)、初穂料、お初穂料などと言います。
★玉串料とは

通夜際、葬儀(葬場祭)、各種祝い儀式(七五三、お宮参り)、結婚式、各祈祷、厄払いの際に神社に納める謝礼として金銭を渡す際の表書きに用います。


初誕生祝は、赤ちゃんが誕生してから一年間無事に育った事を祝い、これからいよいよ自分の足で立って歩き始める赤ちゃんを励ますためのお祝いです。
昔の日本では、新しい年と共に年齢を重ねる「数え年」の考え方でしたので、毎年誕生日を祝う習慣はありませんでしたが、赤ちゃんの満1才だけは特別でした。
乳幼児の死亡率が高かった昔は、1歳まで無事に成長したことを盛大にお祝いする習慣がありました。
   
昔からの習わしとして、健康でたくましく育つようにとの願いをこめて 誕生餅 をついて祝う風習が残っている所があります。
お餅は古来より神様に捧げられる神聖な特別な食べ物で、餅を食べると特別な力を授かると信じられていたそうです。
そして、その食べ物の代表であるお餅を「一生食べ物に困らないように」という意味でお餅を搗きます。
初誕生には、一升のお餅を背負う という祝い方の習慣ができたそうです地域によっては、赤ちゃんに餅を踏ませる 餅踏み 餅を背負わせる 背負餅 など、 立餅 転ばせ餅 一生餅 などとといった、餅を使ってお祝いをするところもあります。
数多くのやり方が地域ごとにはありますが、基本的には2通りです。
赤ちゃんに餅を「背負わせる」タイプと、「踏ませる」タイプです。
全国的に「背負う」タイプが多く、九州地方には「踏む」タイプが多いようです。
基本はこの2パターンですが、それに地域ごとのアレンジが効かされ、独特のものになっていることもあります。
この2つ以外の珍しいパターンとして、ただ単に赤ちゃんが餅を抱っこする、という行事もあるようです。
これらの行事に使われる餅は、地域にもよりますが「一升餅」と呼ばれます。
これは、人間の一生と餅の一升をかけて、「一生丸く(円満に)長生き出来るように」とか「一生食べ物に困らないように」などという願いをこめています。
この一升餅や、お正月の鏡餅など、お祝いに使用する餅には、古来より天照大神(あまてらすおおみかみ)が宿るといわれています。
餅を「天の岩戸」になぞらえ、楽しいお祝いの後には岩戸が開くようにその餅を切って食べるのがしきたりです。

現金を贈る場合の表書き 

初誕生祝・祝初誕生日・祝御誕生日

紅白の蝶結びの水引きがついた熨斗袋を使います。

初誕生のお祝いに関す金額の相場、
祖父母 :10,000〜20,000円
兄弟姉妹: 3,000〜20,000円
親戚  : 3,000〜10,000円
友人  : 3,000〜10,000円
知人  : 3,000〜10,000円
      
親戚の場合あちこちから初誕生の報告が来たら大変です。
あらかじめ兄弟姉妹や親戚間で金額を取り決めておくのも1つの方法です。

   
古来、赤子の命ははかないものでした。
やっと世に出たその命が、わずか二日三日で果ててしまうなど日常茶飯事のことでした。
人々は何とか赤子が天に召されることがないように、悪霊の目につかないようにと祈りました。
そのために生まれてきた子にわざとお古のぼろ着物を着せたりしました。
また自分たちが生んだ子ではない、拾ってきたんだと言い繕うために、幼名を「お捨て」、「拾い」などのようにしました。
そんな赤子が何とか生を永らえ、人生を自分の力で生きていける気配が見えた時、赤子は生後はじめて氏神様に御参り(お宮参り) して氏子となります。
男児31日目、女子32日目に参ることが多いですが、モモカマイリといって100日目にお参りする地域もあります。
赤子は里から贈られた 初着(うぶぎ) を掛け衣装としてまといました。
社前に御神酒と赤飯を供え、赤子をつねって泣かせることで神様に印象づけこれからの御加護を祈りました。

現金を贈る場合の表書き 

初穂料・御玉串料・御神饌料 など。
紅白の蝶結び の水引きがついた熨斗袋を使います。

★上段には、御初穂料、御礼、御玉串料など。 
★下段には姓のみ、もしくは夫婦連名とします。

●初穂料と玉串料の違い
そのお参りの際に神官にお祓いの儀式をお願いします。
この時に謝礼として払うお金が 「初穂料」 です。
初穂料とは神社での祝詞やお祓いなどの謝礼の表書きとして使われている言葉で一般的にお宮参りの際に祝詞をあげてもらったお礼として払います。
初穂というのはその年の最初に実った稲・穂・野菜などのことで、昔は収穫したものを感謝の気持ちを込めて神様に捧げていました。
現代ではその収穫物ではなく、変わりにお金をつつんで 「初穂料」 として渡すということが一般化したようです。
ちなみに、お宮参りの他には七五三・結婚式の時などにも初穂料として神社に納めることがあります。

玉串料は玉串(榊の枝に紙垂を付けたもの)の代わりとして納める金銭のことなので、お守りや神様からお札をもらうようなお宮参りや七五三などの儀式の時には、「初穂料」として神社に金銭を納めるのがいいでしょう。
初穂料を包む金額は地域や神社によって変わってきますが、5,000円から10,000円が相場です。
神社によっては授与物(お守りや絵馬など)によってさまざまな金額のコースを設定しているところもあります。
しかし、金額は「お気持ちでいいです」とする神社も多くあり、その場合はいくら包めばいいのか分からないと悩む方も多いでしょう。
迷った時は5,000円から10,000円の間で払うと間違いないです。
神社で正式に祝詞をあげてもらい、お祓いなどのしてもらう謝礼は、白赤の蝶々結びの水引きがついた熨斗袋を使用するのが理想的です。


赤ちゃんが生まれたら、まずは名前をつけますよね,出生届は生後14日までに提出する必要があります。
出生届の提出前に、日本の伝統では「お七夜」という命名式に名前をつける風習があります。
赤ちゃんのお七夜とは、赤ちゃんにつけた名前をお披露目し、家族や地域の人々その土地の産神(うぶがみ)に報告する日とされています。
その起源や由来は詳しくわかっていませんが、現代のように医療が発達していなかった時代は赤ちゃんの生存率が低く、特に誕生直後の1週間を無事に過ごせることはとてもおめでたいこととされていたため、生後7日目の夜に行われるようになったといわれています。
赤ちゃんのお七夜・命名式の日数の数え方は、生まれた日を「1日目」とし、7日目の夜にお祝いをします。
例えば、5月6日出産なら、5月12日の夜に、お七夜を行います。
お七夜・命名式も大切ですが、生後14日までに提出する出生届だけは忘れないようにしてください。
赤ちゃんのお七夜・命名式では、命名式を行ったあと、祝い膳を囲むのが正式な祝い方です。
昔は一族の長が名づけ親となり、家族や親戚を家に招いて盛大にお祝いをしました。
今は自宅で行うことがほとんどで、ママやパパがお互いの両親を招いて、赤ちゃんとその子の名前をお披露目してから、食事会を開くことがあります。
しかし、両親が近くに住んでいない人も増えており、お七夜・命名式はママ・パパだけで行い、約1ヶ月後のお宮参りは家族みんなでお祝いをするというスタイルも一般的になってきています。
生後1週間の記念として赤ちゃんの手形や足型をとったり、家族・親族を含めて写真館やスタジオで記念撮影をしたりします。
お祝いの膳の料理の内容は、赤飯、尾頭つきの鯛、紅白の麸やかまぼこ、なます、刺し身、はまぐりのお吸いものなど、お祝いに適した食材や料理が並びます。
お食い初めとは、生後100日頃に行う日本の伝統的なお祝い事の一つで、「一生食べ物に困らずに生活できますように」という願いが込められています。
起源や由来ははっきりとわかっていませんが、平安時代から行われており、室町時代にお食い初めが行われた記録も残っています。

お七夜(命名)での表書き例

祝命名 御酒肴料 祝御七夜 命名御礼 御初穂料 祝命名 御酒肴料 祝御七夜 命名御礼 御初穂料 

熨斗(のし)紙などの装飾は、紅白の蝶結びの水引を使うのが一般的です。

赤ちゃんの命名式での名前の書き方

親の名前・続柄とともに、赤ちゃんの名前と生年月日を記入します。


水引きが蝶結び(花結び)になっているもので熨斗が付いた封筒を選びましょう。
●表書きは
★御祝 ・ 御出産御祝
(御出産祝は不吉な数字 4になってしまいますので、気を付けましょう)
下半分には贈り主の名前を書きますが、名字だけでも、フルネームでもOKです。
連名にしても大丈夫です。
夫婦で贈る場合には妻の名前を左側に書きます。
また、グループで贈る場合には「◯◯一同」と書きます。
裏側の折り方も重要で、下側が上に重なるように折って水引きをかぶせます。

●もらって嬉しかった出産祝いは
80p以上のベビー服 ・ 現金(商品券) ・ よだれかけ 大きめなタオル ・ ベビー用スキンケア ・ おむつケーキ おもちゃ・絵本 となっています。

●金額の相場はどうなっているでしょうか 
友人・知人は5千円〜1万円
親戚の場合は1〜2万円程度が相場です。
同僚でしたら、ほかの方と一緒にプレゼントを贈ってもいいですね!
●出産祝いはいつ頃どうやって贈ればいいでしょうか?
退院後、ママも赤ちゃんも家に帰って落ち着いた頃が最適です。
通常は、1週間〜1ヶ月後くらいが良いとされています。
現金を贈る場合は新札で赤白の水引、蝶結び、のし紙をつけた祝儀袋で送ってください
4や9など縁起の悪い金額以外を用意しましょう。
持参せず、デパートなどから配送する場合は、プレゼントにお祝いのメッセージを添えるとさらに喜ばれます。


政府が発行する国民栄誉賞 
国家が発行する場合は章の文字を書き、国の公的機関が発行する場合は賞の文字を書きます。
賞状の紋が叙勲・褒章では菊のもんでしたが国民栄誉賞は金箔の桐の紋になっています。
上は安倍総理から長嶋茂雄さんに与えられた国民栄誉賞です.
国民栄誉賞は国の栄典ではなく国民的な栄誉を讃える内閣総理大臣表彰の一つです。
国民栄誉賞の創設は1977年に当時の首相 福田赳夫により創設されました。
当時の内閣総理大臣・福田赳夫が、本塁打世界記録を達成したプロ野球選手・王貞治を称えるために創設したのが始まりでした。
その目的としては、広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについてその栄誉を讃えることと規定されています。
本賞の表彰の仕方を定めた国民栄誉賞表彰規程実施要領では表彰の候補者について、「民間有識者の意見を聞くと定めており、首相の要望だけでは決められない仕組みになっています。
受賞者には「表彰状及び盾」のほか「記念品又は金一封」が贈られるとなっていますが、これまでは、すべて記念品の贈呈でした。
王には鷲の剥製
2011 FIFA女子ワールドカップ日本女子代表には熊野筆の化粧筆7本
吉田沙保里には真珠のネックレス 
振袖で表彰を受けた伊調馨には西陣織による金色の帯が贈られています。
贈呈・表彰式は慣例で内閣総理大臣官邸で開催されますが2013年(平成25年)5月5日に実施された長嶋茂雄・松井秀喜への贈呈は特例として東京ドームにおける読売ジャイアンツ(巨人)主催公式戦の中で松井の引退式を兼ねて実施されました。
この日の贈呈式において安倍晋三は現職の内閣総理大臣でありながら巨人のユニフォームを着用して参加しています。


公益のため私財を寄附し功績顕著なる者」に授与されます。
大正7年に制定。1919年(大正8年)、恩賜財団済生会へ5万円(現在の価値で1000万円相当を寄付した小野光景が受章第1号です。
紺綬褒章は他の褒章のように受章機会が春秋のみに限られず、事由の発生に合わせて毎月末にまとめられ閣議で決定され発令されます。
昭和55年の授与基準では、公的機関や公益法人などへの500万円以上の寄付をした個人、1000万円以上の寄付をした団体が主な対象となりました。


教育衛生慈善防疫の事業、学校病院の建設、道路河渠堤防橋梁の修築、田野の墾闢(こんぺき、開墾)、森林の栽培、水産の繁殖、農商工業の発達に関し公衆の利益を興し成績著明なる者又は公同の事務に勤勉し労効顕著なる者」に授与されます。
1882年(明治15年)、灌漑用水を開通させて荒野を農地に変え村民生活の向上に貢献した大阪府の石田長蔵・久保田伊平が受章第1号、第2号で、第3号〜第7号は北海道函館の常野正義・渡辺熊四郎・平田兵五郎・今井市右衛門・平塚時蔵の5人です。
戦後は毎年600人から1000人が受章しています。
2003年(平成15年)の栄典制度改正では、「公衆の利益を興した者に対する藍綬褒章の選考に当たっては、他の模範となるような優れた業績が認められる者を対象とします。
また従来公同の事務とされている分野について運用の見直しをい、勲章の対象との関係を整理する」こととされました。


学術芸術上の発明改良創作に関し事績著明なる者に授与されます。
褒章条例(明治14年太政官布告第63号)の改正により、1955年(昭和30年)1月23日に制定されました(昭和30年政令第7号)。
同条例1条は、紫綬褒章を「学術芸術上ノ発明改良創作ニ関シ事績著明ナル者ニ賜フモノトス」と定めています。
2002年(平成14年)の栄典改革により、「紫綬褒章については、年齢制限を撤廃し、科学技術分野における発明・発見や、学術及びスポーツ・芸術分野における優れた業績等に対して、速やかに表彰する。」とされ従来50歳以上とされていた年齢制限が撤廃されました。
例年、春(4月29日)と秋(11月3日)の2回発令され、学術、芸術、スポーツ分野の功労者に授与されます。
「勲章、記章、褒章等の授与及び伝達式例」(昭和38年7月12日閣議決定)4条は、褒章について、「内閣総理大臣の命を受け、内閣府賞勲局長が所管大臣に伝達し、所管大臣が適宜受章者に伝達する。」と定めました。
通例、紫綬褒章の伝達式は、東京都内のホテルなどで行なわれます。
また受章者は、伝達式にあわせて、皇居で天皇に拝謁します。
紫綬褒章の受章者には、紫色の綬(リボン)が付されたメダルと、受章の理由・受章日などが書かれた天皇名の褒状、略綬が授与されます。
褒章をもって表彰されるべき者が団体であるときは、褒状が授与されます。
団体に対して紫綬褒章と同様の理由で授与された例としては、2006年(平成18年)のワールド・ベースボール・クラシック第1回大会で優勝した日本代表チーム(王貞治監督)が初めてです。


業務に精励し衆民の模範たるべき者に授与されます。
1887年(明治20年)、黄綬褒章臨時制定ノ件(明治20年勅令第16号)により「私財ヲ献納シ防海ノ事業ヲ賛成スルモノニ授与スル」(沿岸防衛事業への私財提供者)と定められました。
このときの受章第1号は、中井新右衛門
その後数年間は授章されたものの、長らく途絶えていました。
この勅令は、1947年(昭和22年)の内閣官制の廃止等に関する政令(昭和22年政令第4号)により一旦廃止された。
1955年(昭和30年)の栄典制度改正により、授与する理由をあらためて再度制定されました。
同年、多年にわたり水稲農作技術の向上に努力した北海道の天崎正太郎が新たな受章第1号です。
改正されてからは、毎年500人から600人が受章しています。
2003年(平成15年)の栄典制度改正では、「第一線で業務に精励している者で、他の模範となるような技術や事績を有する者を対象とし、受章者数の増加を図る」こととされました。


自ら進んで社会に奉仕する活動に従事し徳行顕著なる者に授与されます。
当初は「孝子・順孫・節婦・義僕の徳行卓絶なる者又は実業に精励し衆民の模範たるべき者」に授与することとされていました。
1882年(明治15年)、青森県で数十年にわたり母へ孝養を尽くした外崎専四郎が受章第1号です。
1950年(昭和25年)12月25日の受章を最後に一旦途絶えました。
これは1955年(昭和30年)の栄典制度改正で「実業に精励し―」の部分が黄綬褒章として独立し対象が狭まったこと、「孝子・順孫・節婦」の部分が家制度と家長を否定し法の下の平等・両性の平等・個人の尊厳を唱える日本国憲法第14条・日本国憲法第24条の趣旨に合わないこと、「義僕」とあるが家事使用人を長期にわたって雇うような裕福な家庭は最早見当たらないことなどによります。
そのため、平成15年栄典制度改正では受章機会・選考基準の見直しが図られ、平成14年8月12日政令第278号改正では褒章条例第1条中の緑綬褒章に関する部分が「自ラ進デ社会ニ奉仕スル活動ニ従事シ徳行顕著ナル者ニ賜フモノトス」と改められました。
これにより、社会福祉分野やボランティア活動などで顕著な実績のある個人等に授与することとなりました。
そして、翌2004年(平成16年)春の褒章では半世紀ぶりに緑綬褒章が26名に授与されました。
2008年(平成20年)には、長年の受刑者更生支援等奉仕者として、芸能人で初めて杉良太郎が受章しました。
芸歴の長い俳優は紫綬褒章の対象になることが多く、杉も翌2009年(平成21年)に紫綬褒章を授与されました。


自己の危難を顧みず人命の救助に尽力したる者に授与されます。
1882年(明治15年)、青森県の海岸で暴風波浪により難破した漁船乗組員を救助した工藤仁次郎が受章第1号です。
2003年(平成15年)の栄典制度改正に伴い受章機会の拡大が図られ
2004年(平成16年)春の褒章では16年ぶりに紅綬褒章が3名に授与されました。
2005年(平成17年)春の褒章では落水車からの人命救助により15歳の少年に贈られました。(未成年者で初の受章)
また同年秋の褒章では、JR福知山線脱線事故で救助活動に当たった日本スピンドル製造や二次災害を防いだ主婦に贈られました。
2011年(平成23年)秋の褒章では、川で溺れていた男児を協力して救助した13歳の少年に贈られました(2015年現在、最年少の受章者)。

広く民間の各種善行者に授与される栄典です。
種類による区別はあるが等級の差はありません
太政官布告の褒章条例(1881年)で定められ,初めは紅綬褒章,緑綬褒章,藍綬褒章の3種,1918年紺綬褒章が加わり,1955年政令により黄綬褒章,紫綬褒章の各褒章ができました。
天皇が内閣の助言と承認により授与します。
勲章、位階と並ぶ日本の栄典の一つです。
勲章が国家または公共への功労を顕彰(けんしょう)するものであるのに対し、褒章は社会の各分野での優れた事績、行いを顕彰すると1881年(明治14)の太政官布告第63号「褒章条例」によって制定されました。
章は円形のメダルで、中央の金色の円内に褒章と記され、それを銀色の桜花紋(おうかもん)が囲んでいます。
6種類は、それぞれの名称となっている色でつくられた、章を吊るす綬(じゅ)(リボン)で区別されています。
複数回の受章となる場合は、褒章でなく、銀製の飾版(しょくはん)が授与され、それが5個以上になると、5個ごとに金製の飾版1個と引き換えます。
なお、表彰される者が団体の場合は、褒章ではなく褒状が授与されます。
また、受章対象者が死亡している場合は、遺族に賞杯(銀杯・木杯)または褒状が贈られます。


芸術や学問など、文化の発達にめざましい功績をあげた人に授与される勲章です。
毎年11月3日の文化の日に授与式が行われ、天皇陛下から直接、橘の中央に曲玉をデザインした勲章が贈られます。
文化勲章の授与が始まったのは、1937年2月に文化勲章令が制定されてから、受章の候補者は、文化功労者の中から選ばれるしくみなっており、大学教授や文化施設長らがメンバーの文化審議会の意見を聞いた上で、文部科学大臣が選考し、内閣総理大臣に推薦を行い閣議決定されます。
第1回の文化勲章は、日本画家の横山大観、物理学者の長岡半太郎など9人が受章しました。
毎年5人ずつ選定されるのが定例になっていましたが、2008年度はノーベル賞受賞者が3人出たこともあってか、8人が文化勲章を授与されました。
ノーベル物理学賞を受賞した小林誠と益川敏英、ノーベル化学賞受賞の下村脩を始め、指揮者の小澤征爾、小説家の田辺聖子らが受章しています。
なお、09年度の受章者は、名城大教授で材料科学の飯島澄男、歌舞伎俳優の坂田藤十郎、落語家の桂米朝ら5人、桂米朝は落語界初の受章者となりました。
一方、文化勲章の受章候補に選ばれながら、それを辞退する文化人もいます。
小説家の大江健三郎は、1994年にノーベル文学賞を受賞し、文化勲章の授与も打診されましたが、「民主主義に勝る権威と価値観を認めない」との理由で辞退しました。
またその翌年には、女優の杉村春子が、「自分には大きすぎるもっと自由でいたい。ただ芝居をしていたいだけ」との理由で辞退しています。

宝冠章
日本に於ける勲章の一つです。
明治21年1月4日に勲一等から勲五等までを制定、明治29年4月13日に勲六等から勲八等までが追加制定されました。
以後長らく八等級での運用が行われていたが、平成15年11月3日の栄典制度改正により勲七等と勲八等が廃止されました。
現在では六つの級での運用です。
宝冠章は制定以来、その授与対象を女性に限定した唯一の勲章す。
勲章制度の男女均等を図った栄典制度改訂後の現在でも女性のみに授与されるものとなっています。
栄典制度改訂により旭日章、桐花章、菊花章が女性にも与えられるようになったため、一般の叙勲に於いては宝冠章は運用されておりません
現在では日本の女性皇族に対する叙勲と、国家元首や皇族・王族などの公式訪問の際に行われる、外国人に対する儀礼叙勲に限定して
運用されています。
特筆すべき例としては、元イギリス首相のマーガレット・サチャーが勲一等宝冠章を贈られたことが挙げられます。
外交儀礼による交換ではなく、純粋に個人の功労が評価されて大綬章(勲一等)が授与された非常に希な事例であります。
現在でも国家の正式な勲章の一つとして存続しているが、女性皇族や外国人女性賓客などを対象とした非常に限定的な運用がなされています。

東郷平八郎瑞宝章
  東郷平八郎の肖像           瑞宝章
日本の勲章の一つです。
瑞宝章は勲章増設の詔により大勲位菊花章頸飾並びに勲一等旭日桐花大綬章、及び女性を授与対象とした宝冠章と共に増設された勲章であります。
同日の各種勲章等級ノ製式及ヒ大勲位菊花章頸飾ノ製式により勲一等から勲八等までの8等級が制定され、各種勲章及大勲位菊花章頸飾図様によってその意匠等が定められました。
それ以前は男性を授与対象とした大勲位菊花大綬章及び旭日章しかなく、制定当時は瑞宝章も男性のみが授与対象とされていました。
婦人ノ勲労アル者ニ瑞宝章ヲ賜フノ件によって女性にも等しく授与されるようにりました。
平成15年5月20日閣議決定により、勲等が数字での表示されていたものが瑞宝大綬章、瑞宝重光章、瑞宝中綬章、瑞宝小綬章、瑞宝双光章、瑞宝単光章と名称表記に改められると共に、勲7等及び8等が廃止され、6等級とされました。
瑞宝章は、「国家又ハ公共ニ対シ積年ノ功労アル者」に授与すると定められ具体的には「国及び地方公共団体の公務」または「公共的な業務」に長年にわたり従事して功労を積み重ね、成績を挙げた者を表彰する場合に授与されます。
明治25年7月19日、広瀬宰平(住友総理事)、渋沢栄一(第一銀行頭取)、古河市兵衛(足尾銅山経営者)、伊達邦成(北海道開拓者)の4人が、「民間人」として初めて勲四等瑞宝章を受章しました。
それまで、勲章は国家のために尽くした者、つまり官吏にしか授けられなかったが、同年賞勲条例が改正され、民間人でも国家のためにつくした者には授与されることとなりました。
瑞宝大綬章(ずいほうだいじゅしょう)
日本の勲章の一つです。
瑞宝大綬章は、瑞宝章の最高位の勲章であります。
瑞宝章は明治21年1月4日に制定され、平成15年に改正されました。
勲章のデザインは、古代の宝であった宝鏡を中心に大小16個の連珠を配して、四条ないし八条の光線を付します。
紐(ちゅう、正章と綬をつなぐ部分)には桐の花葉を用いています。
綬(リボン)は、織地藍色、双線橙黄色です。
瑞宝大綬章の受章者には、中央省庁の事務次官、検事総長、特命全権大使、会計検査院長、主要大学の学長などを経験した者が多い。
栄典改革前の勲一等瑞宝章は、大企業の経営者に授与されることも多く、トップに勲一等瑞宝章が授与される企業は俗に「瑞一企業」とも呼ばれました。
栄典改革後には、瑞宝大綬章は公務員であった者に授与されることが多く、大企業の経営者には旭日大綬章など旭日章を授与する例が
多い。これは、栄典改革の際に「勲章の授与基準」平成15年5月20日閣議決定を改正したことによります。
瑞宝章は、「国及び地方公共団体の公務又は…公共的な業務に長年にわたり従事して功労を積み重ね、成績を挙げた者を表彰する場合
に授与する」と定められ、その授与基準は、「その者の果たした職務の複雑度、困難度、責任の程度等」について評価を行い、特に重要と認められる職務を果たし成績を挙げた者に対しては瑞宝重光章以上を授与すると定められています。
この授与基準によれば、「事務次官の職を務めた者」には瑞宝重光章を授与すると定めているが、「その者の功労全体を総合的に
評価して、より上位の勲章の授与を検討することができる」としたため、事務次官経験者に瑞宝大綬章を授与することもあります。
瑞宝重光章 (ずいほうじゅうこうしょう)
日本の勲章の一つです。
瑞宝章のうち、瑞宝大綬章に次ぐ。平成14年8月の閣議決定「栄典制度の改革について」により、それまでの勲二等瑞宝章から名称が変更されました。
翌2003年5月の閣議決定「勲章の授与基準」によれば、公共的な職務の複雑度、困難度、責任の程度などを評価し、特に重要と認められる職務をはたし成績をあげた人に対して、瑞宝重光章以上を授与するとなっています。
一般行政事務では事務次官が対象となるほか、高裁判事や大学の学長などが多い。
授与は皇居正殿松の間で行われるが、天皇による親授ではなく、内閣総理大臣が受章者に伝達します。
そのあと配偶者とともに豊明殿で天皇に拝謁します。
瑞宝中綬章 (ずいほうちゅうじゅしょう)
日本の勲章の一つです。
瑞宝章6つのなかで3番目に位置します。
平成14年8月の閣議決定「栄典制度の改革について」により、それまでの勲三等瑞宝章から名称が変更されました。
翌2003年5月の閣議決定「勲章の授与基準」によれば、公共的な職務の複雑度、困難度、責任の程度などを評価し、重要と認められる職務をはたし成績をあげた人に対して授与されます。
一般行政事務での瑞宝中綬章の対象者は中央省庁の部局で長を務めた人で、そのほかでは大学教授に多い章です。
伝達は所管大臣が行います。
瑞宝小綬章 (ずいほうしょうじゅしょう)
日本の勲章の一つです。
瑞宝章6つのなかで4番目に位置します。
平成14年8月の閣議決定「栄典制度の改革について」により、それまでの勲四等瑞宝章から名称が変更されました。
翌2003年5月の閣議決定「勲章の授与基準」によれば、公共的な職務の複雑度、困難度、責任の程度などを評価し、重要と認められる職務をはたし成績をあげた人に対して、瑞宝小綬章以上を授与するとなっています。
一般行政事務での瑞宝小綬章の対象者は本府省の課長を務めた人で、そのほかでは郵便局長や警察署長、税務署長、公立高校長などに多い。
伝達は所管大臣が行うが、総務省関係は都道府県知事が行います。
瑞宝双光章 (ずいほうそうこうしょう)
日本の勲章の一つです。
瑞宝章6つのなかで5番目に位置します。
平成14年8月の閣議決定「栄典制度の改革について」により、それまでの勲五等瑞宝章から名称が変更されました。
翌2003年5月の閣議決定「勲章の授与基準」によれば、公共的な職務の複雑度、困難度、責任の程度などを評価し、職務をはたし成績をあげた人に対して授与するとなっています。
受章者には保護司や小・中学校長などが多い。伝達は所管大臣が行うが、総務省および厚生労働省関係は都道府県知事が行います。
瑞宝単光章 (ずいほうたんこうしょう)日本の勲章の一つです。
瑞宝章6つのなかで6番目に位置します。
平成14年8月の閣議決定「栄典制度の改革について」により、それまでの勲六等瑞宝章から名称が変更されました。
翌2003年5月の閣議決定「勲章の授与基準」によれば、公共的な職務の複雑度、困難度、責任の程度などを評価し、職務をはたし成績を
あげた人に対して、瑞宝単光章以上を授与するとなっています。
受章者には消防団長、民生・児童委員、看護師長などが多い。伝達は所管大臣が行うが、総務省および厚生労働省関係は都道府県知事が行います。

旭日大綬章
日本の勲章の一種です。
明治8年に明治政府が勲等賞牌(しょうはい)を制定して叙勲を開始しました。
日本で最初の勲章となり、勲一等から勲八等までの8等級が制定されました。
対象は、「国家又ハ公共ニ対シ勲績アル者」とされました。
翌1876年に旭日章の上に大勲位菊花大綬章(だいくんいきっかだいじゅしょう)が新設され、さらに1888年に最上位の大勲位菊花章頸飾(だいくんいきっかしょうけいしょく)がおかれました。
旭日章に関して勲一等旭日大綬章(くんいっとうきょくじつだいじゅしょう)の上に勲一等旭日桐花(とうか)大綬章が追加され、9等級となりました。
同時に、男性を対象とした旭日章に加えて、同格で女性を対象とした宝冠章(ほうかんしょう)(8等級)
同じ等級の中では下位におかれた瑞宝章(ずいほうしょう)(8等級)も新設されました。
その後、第二次世界大戦後に生存者叙勲は一時停止されましたが、昭和39年に再開され、同じ勲章制度が引き継がれました。
しかし、平成14年8月の閣議決定「栄典制度の改革について」により、旭日章の等級は6つに整理され、勲一等などの数字は廃止されました。
同時に、旭日章と瑞宝章を同格にして男女共通とし、2つの章の違いを、功績の内容に着目する旭日章と、功労の積み重ねに着目する瑞宝章という性格におくことを明確にしました。
現在の旭日章の対象は、国レベルから地方レベルまでの公職、職種別・業種別団体など公益性を有する団体の役員、企業経営者、また社会の各分野で顕著な功績をあげた人などで、功績の度合いにより、次の6つに分かれます。
旭日大綬章、旭日重光章、旭日中綬章、旭日小綬章、旭日双光章、旭日単光章。
旭日章の意匠(いしょう)はそれぞれ多少異なりますが基本は同じで、日章を中心に八角の光線を配し、鈕(ちゅう)には桐の花葉を用
いています。
旭日大綬章 (きょくじつだいじゅしょう)
日本の勲章の一つで、旭日章の最高位。
平成14年8月の閣議決定「栄典制度の改革について」で制定された。
それ以前は、明治期に確立した勲章制度により勲一等旭日大綬章とされていた。
翌2003年5月の閣議決定「勲章の授与基準」によれば、旭日大綬章の対象者は、「内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長
又は最高裁判所長官の職にあって顕著な功績を挙げた者」とされております。
授与式は皇居正殿松の間で行われ、天皇が勲章を親授します。
旭日重光章 (きょくじつじゅうこうしょう)
日本の勲章の一つです。
旭日章のうち、旭日大綬章に次ぎます。
平成14年8月の閣議決定「栄典制度の改革について」により、「勲二等旭日重光章」から勲二等が省かれました。
翌2003年5月の閣議決定「勲章の授与基準」によれば、「国務大臣、内閣官房副長官、副大臣、衆議院副議長、参議院副議長
又は最高裁判所判事の職にあって顕著な功績を挙げた者にこの旭日重光章が授与される
さらに、都道府県知事、政令指定都市の市長、公益団体では全国的に活動している団体の長、企業経営者では経済社会の
発展に対する寄与が極めて大きい企業の最高責任者が対象となります。
授与は皇居正殿松の間で行われるが、天皇による親授ではなく、内閣総理大臣が受章者に伝達します。
そのあと配偶者とともに豊明殿で天皇に拝謁します。
旭日中綬章 (きょくじつちゅうじゅしょう)
日本の勲章の一つです。
旭日章6つのなかで3番目に位置します。
平成14年8月の閣議決定「栄典制度の改革について」により、「勲三等旭日中綬章」から勲三等が省かれました。
翌2003年5月の閣議決定「勲章の授与基準」によれば、公職では、大臣政務官、衆議院常任委員長、参議院常任委員長、衆議院特別委員長、参議院特別委員長または国会議員、都道府県知事、さらに、政令指定都市の市長をはじめとする市長や特別区の区長、都道府県議会議員、市議会議員、特別区の議員が対象となります。
公益団体では全国的に活動している団体の長、企業経営者では経済社会の発展に対する寄与が特に大きい企業の最高責任者が対象となります。
伝達は所管大臣が行います。
旭日小綬章 (きょくじつしょうじゅしょう)
日本の勲章の一つです。
旭日章6つのなかで4番目に位置します。
平成14年8月の閣議決定「栄典制度の改革について」により、「勲四等旭日小綬章」から勲四等が省かれました。
翌2003年5月の閣議決定「勲章の授与基準」によれば、対象者は、公職では政令指定都市の市長、それ以外の市長、特別区の区長、町村長、都道府県議会議員、市議会議員、特別区の議員、公益団体では全国および都道府県を活動範囲としている団体の長、企業経営者では経済社会の発展に対する寄与が大きい企業、国際的に高い評価を得た企業や技術がとくに優秀な企業の最高責任者が対象となります。
伝達は所管大臣が行ないます。
旭日双光章 (きょくじつそうこうしょう)
日本の勲章の一つです。
旭日章6つのなかで5番目に位置します。
平成14年8月の閣議決定「栄典制度の改革について」により、「勲五等双光旭日章」から勲五等が省かれ現在の名称になりました。
翌2003年5月の閣議決定「勲章の授与基準」によれば、対象者は、公職では政令指定都市以外の市長、特別区の区長、町村長、都道府県議会議員、市議会議員、特別区の議員、町村議会議員、公益団体では都道府県区域を活動範囲としている団体の長、全国または都道府県の区域を活動範囲としている団体の役員、市町村の区域を活動範囲としている団体の長、企業経営者では国際的に高い評価を得た企業や技術がとくに優秀な企業の最高責任者が対象です。
伝達は所管大臣が行うが、総務省および厚生労働省関係は都道府県知事が行います。
旭日単光章 (きょくじつたんこうしょう)
日本の勲章の一つです。
旭日章6つのなかで6番目に位置します。
平成14年8月の閣議決定「栄典制度の改革について」により、「勲六等単光旭日章」から勲六等が省かれ現在の名称になりました。
翌2003年5月の閣議決定「勲章の授与基準」によれば、対象者は、公職では町村長、都道府県議会議員、市議会議員、特別区の議員、町村議会議員、公益団体では市町村の区域を活動範囲としている団体の長が対象です。
伝達は所管大臣が行うが、総務省および厚生労働省関係は都道府県知事が行います。

桐花大綬章
日本の勲章の一つです。
明治21年1月4日に旭日章の最上位として追加制定されました。
日本に於ける高位勲章の一つです。
平成15年11月3日から勲一等旭日桐花大綬章は、旭日大綬章及び瑞宝大綬章を授与されるべき者のうち功績又は長年にわたる功労が特に優れているものに授与される勲章とし名称を桐花大綬章に改めました。
明治8年4月10日に、日本で最初の勲章として、旭日章が制定されたが、それに遅れること約13年の明治21年に勲一等旭日大綬章の上位にあたる勲章として勲一等旭日桐花大綬章が追加制定されました。
現在の桐花章の前身です。
一説によれば、金鵄勲章の制定を画策した山縣有朋に、栄典の差をつけられることを嫌った伊藤博文が対抗して制定を促したとも言われます。
当時の宮中席次において、金鵄勲章の功級は同じ数字を持つ勲等より上位に位置づけられていたため、功一級金鵄勲章は勲一等旭日大綬章よりも上位にありましたが、勲一等旭日桐花大綬章だけは例外的に功級より上位に位置づけられていました。
戦後金鵄勲章が廃止され、栄典制度改正により旭日章と瑞宝章は同格の普通勲章に改められましたが、桐花章はそれらより上位の勲章として運用されました。

運用
現在では国家または公共に対し功労のある者の中から、特に旭日大綬章または瑞宝大綬章を授与する功労より優れた功労のある者に対して授与されます。
内閣総理大臣・衆議院議長・参議院議長・最高裁判所長官といった三権の長をつとめた者には概ねこの勲章かそれ以上のものが授与されています。
また民間では卓越した功労のあった企業経営者や、経済団体連合会の会長で功労のあった者などにも授与されています。


こちらも特に決まりはありませんが、上位の方には大きい物を。
以降、順に小さい物にしていくのが一般的です。
但し、あまり沢山のサイズを使用しますと、一目見て判断することが難しくなってしまうため、関係の仕方によって色分けしたりする方が宜しいかと思われます。
会社の総会や、記念式典などの場合でしたら、リボンバラの「大」で宜しいかと思われます。
特大サイズは、国会議員や県会議員クラス、
超特大サイズは、国賓クラスに使用されることが多いようです。


慶事には、カラフルな物を、弔事には、白黒を使用します。
基本的には、来賓が何色とか、主催者側には何色という決まりはありませんので、自由に決められて宜しいかと思います。
古来からの日本式では、ご来賓や、目上の方は「白色」を使用したようです。
戦後から昭和後半までは陛下は白の胸徽章をお付けになり、同席の皇室以外の人々はその他の色を付けることが殆どであったと聞きます.
民間行事でもそれにならってか上位(賓客)が白色、下位(接待側)が赤色を用いることが普通でした。(この場合は色の薄い程上位で最上位は白色、次位は黄色、後桃色、赤色の順)
平成14年の皇室行事で陛下が白の胸徽章をお付けになっているのをテレビで拝見しました。
また14年4月国家公務員の新任式で最高位の賓客にあたる小泉総理は白バラをつけておいででした。
同じく14年春、日本の巨大企業同士の合併に伴う式典で両者のトップはやはり白をつけていました。
主催者側に近づくにつれ、だんだん色が付いていくというようにされているようです。
西洋(欧米)式 主に欧米では、勇敢さを称えるというような意味合いから、ご来賓の最上位の方には、「赤色」をお渡しするようす。 国際行事の場合について 欧米では赤が上位でお客が赤を付け、ホスト側は必ず白色とのことです。
欧米では赤は勇気の象徴で大統領が赤いネクタイをしばしばつけるのもその意味です。
こちらは、日本とは逆で、主催者側に近くなるにつれ、だんだんと色が薄くなっていくようです。
最終的に主催者は「白色」を付けるようになります。
このようなことから、外国の方をお招きする席では、 「赤色」を「ご来賓側」「白色」を「主催者」、とされる方が無難かと思われます。


名称について
胸章(きょうしょう) 胸章リボン 徽章 記章 

胸章(むねしょう) リボンバラ バラリボン


胸章リボンの花の下に付く部分にお名入れをする場合がありますが、この部分を「タレ」と呼んでいます。


さらに、胸章のタレの部分に毛筆で名入れをすることを「筆耕(ひっこう)」
をするといいます。

目録は白木台ごと広蓋(ひろぶた)にのせます。
その上に袱紗をかけて風呂敷に包んで持参します。
風呂敷の三角形にあたる部分を上(紋のある場合は上にきます)にして置きます。
風呂敷の中央に広蓋をのせます。
最初に手前、次に左、右、奥の順に重ねて包みます。
風呂敷は下座に置き広蓋ごと渡します。
相手の正面になるように、広蓋ごと差し出します。広蓋は持って帰ります。
※地域によって袱紗をかけたまま渡す場合と外して渡す場合とがあります。

目録

目録は白木台ごと広蓋(ひろぶた)にのせます。
その上に袱紗をかけて風呂敷に包んで持参します。

風呂敷の包み方
風呂敷の三角形にあたる部分を上(紋のある場合は上にきます)にして置きます。
風呂敷の中央に広蓋をのせます。
最初に手前、次に左、右、奥の順に重ねて包みます。

風呂敷は下座に置き広蓋ごと渡します。
相手の正面になるように、広蓋ごと差し出します。広蓋は持って帰ります。
※地域によって袱紗をかけたまま渡す場合と外して渡す場合とがあります。

記念品目録の書き方
目録の書き方
たとえば、こんな感じです。

右欄
中央に表題となる「目録」「贈」などを書きます
中央欄
中央に品名と数量を書きます。品物が一点のときは見本の画像のように中央に「一、○○○」とし、数量 を書きます。
そのあと、「右、□□□として贈呈いたします」などと書きます。
品物の種類が増える場合でも、品目の書き出しは「一、〜」です。
「右、卒業記念品として寄贈いたします。」
左欄 贈呈する日の日付けを書きます。
西暦より平成○○年のように和暦の元号を用います。
次に贈り主の名称を書きます 最後に贈り先の御名前書きます。
結納目録の書き方

結納品は奇数で揃えるのがきまりです。
現在では、5点、7点、9点のセット一式が売られています。
もっともあらたまった形式の9点セットは金包、末広、友白髪子生婦、寿留女、松魚節、家内喜多留料の7品と目録と熨斗の2品が組み合わされています。
結納金は金包に入れます。
金額を書くところは、金包についている中包みの表側に漢数字 を用い、楷書で書きます。
目録に品名も姓名も書くので、金包には表書きを書きません
★末広:末広とは扇子のこと、開くと末のほうが広がることから家内の繁栄を祈るという意
★友白髪:白髪の生えるまで仲よく添い遂げるという意
★子生婦:昆布が入っている、子孫が繁栄するようにという意
★寿留女:するめが入っている、かめばかむほど味が出る嫁になるようにとの願いで
★松魚節:かつお節が入っている、勝男武士とも書く、男らしさのシンボルとして
★家内喜多留料:祝の酒という意、酒料を包む
結納品に添える目録は奉書紙に結納品の品名と数量を毛筆で書きます。
書体は楷書で、目録の表書きは「目録」「壽」とし、贈り主の姓名は書きません
受書:結納品を贈られたら、受け取ったしるしとして、受書を渡します。
書き方は、先方からの目録どおりに品名を書き、上包みの表書きを「受書」とする 家族書・親族書:結納品に添えて、家族書、親族書を取り交わします。
奉書紙に毛筆で書き込みます。
家族書は本人も含め、同居している家族の姓名と本人との続柄を書き込みます。
上包みの表書きは「家族書」とします。
親族書は家族以外の親族の姓名と本人との続柄を書きます。
親族を書く範囲は3親等ぐらいまでとされます。
荷物目録:奉書紙に毛筆の楷書で主だった品名と点数を書きます。
品数は奇数が吉とされます。表書きは「荷物目録」とします。
卒業記念品目録の書き方
卒業式において、卒業生代表が校長先生に「卒業記念品として母校に残して行く記念品」を手渡す際に 実物の代わりとして内容を記載した目録を用います。
退職記念品目録の書き方
定年退職をする社員に「退職記念品」を手渡す際に、実物の代わりとして内容を記載した目録を用います。
財産目録の書き方
ある時点において、企業が所有しているすべての財産(土地、建物、現金、預金、設備、備品、資材、商品等)と すべての負債(借入金等)を記載したリストです。 特に貸借対照表のかたちのものは、毎会計年度ごとに必要となりますし、破産、清算の際には、財産目録が必要となります。

水引についての豆知識

水引は贈答品の包み紙を結ぶ紙製の紐のことです。
お祝い・お見舞い・弔事など贈答品全般に用いられ、現在ではのし紙やご祝儀袋に印刷されているものもあります。
この水引には結び方・色・本数にそれぞれ意味があります。
目的に合わない水引を用いると大変失礼になります。
水引の起源は飛鳥時代までさかのぼります。
来日した中国王朝(随)の使者の贈答品に紅白の麻ひもが結ばれており、その後、宮中への献上品にも紅白の麻ひもを結ぶようになり、やがて庶民にも広まって日本文化として定着したといわれています。
現在の水引は和紙をこより状にしたものが使用され、よりが緩まないよう水糊を引いて固めています。
この紐の作り方が水引の語源です。
水引の結び方には大きく分けて「蝶結び」と「結び切り」があります。
結び切りは水引を細結び(堅結びとも)にしたもので、一度結ぶと解けません。
「二度と繰り返さないでほしい」という想いが込められており、婚礼関係や全快祝い、弔事全般に用います。
水引の両端の向きにも注意。お祝いの時は上向き、弔事は下向きに結びます。
蝶結びは何度も結びなおせることから、「何度あっても嬉しい」という想いが込められており、出産・出生・進学などの慶事(お祝いごと)に用います。
何度も繰り返してはならない婚礼関係には向きません。花結びとも呼ばれます。
水引の本数 慶事では婚礼関係のみ10本も用います。
慶事では奇数(3本・5本・7本)の水引を用い、5本1組が主流です。
婚礼関係は10本1組ですが、「5本」の2束と解釈します。
3本は5本を簡素にしたもので、粗品などに使用されます。7本は5本をより丁寧にしたものといわれます。
ただし贈るお品のサイズが小さいときに7本にすると、水引だけ目立って不格好になる場合もあります。
そんな時は5本にしても問題ありません。
ちなみに9本も奇数ですが「苦」に通じ縁起が悪い数字とされているので、あまり用いません。
結びきりの水引き
結び切
くりかえしてはいけないものに用いますので、結納記念品目録にはピッタリです。
結婚にかかわる一連の儀式(結納、結婚式、披露宴)のお祝いや贈り物に用いるのし紙のし袋は、すべて、一度結んだらほどけない「結びきり」 の水引きのついたのし袋、熨斗紙を使うのがマナーです。
したがって、婚約指輪や結納品の目録には、結び切りの水引きの目録袋を使用します。
卒業記念品、退職記念品は、結び切りの水引きのものでも良いでしょう。
蝶結びの水引き
蝶結び
何度あっても良いお祝い事に使用します。
長寿祝いの記念品の目録を渡す場合には、蝶結びのものを用います(何度あってもよいお祝い事なので、これからもますます長生きし、何度でも長寿のお祝い事をしたいという気持ちから)
褒賞、受賞の場合に用いるべきなのは蝶結びだと思います。


品名,内容を書き並べて見やすくしたもの。
1冊の本の目次も,出版・蔵書・出品の目録も,商品のカタログも目録である。
また進物の品名を記したもの,転じて実物の代りに仮にその品名だけを記して贈るもの,進物として包んで贈る金円も目録という。
礼法では進物の目録を意味することが多い。
進物目録は紙を半折した折紙を用い,結納目録の料紙は婿の官禄により大高檀紙など,平士は引合紙を用いた。
書式も書札礼(しよさつれい)により決りがあり,〈目録〉の字は書かないのが法であるが,明治以後の結納目録には書いてあるものが多い。

目録の種類
1 書物の内容の見出しをまとめて記録したもの。目次。
2 所蔵・展示などされている品目を整理して書き並べたもの。「展覧会の目録」「財産目録」
3 進物をする際、実物の代わりに仮にその品目を記して贈るもの。「結納の目録」
4 芸道・武芸を門人に伝授したとき、その名目を書いて与える文書。
5 進物として贈る金の包み。

目録の歴史
中国では、早くより目録学の考え方が発達しておりました。
日本には奈良時代以前に伝来したと考えられています。
古代には寺院や行政機関で、財産管理や業務上の必要から目録を作成されていました。
官司は15日ごとに作成された公文書をまとめて保管しその所蔵目録作成が義務付けられていました。
寺院では寺院の住持の交替の際には仏具・法具などの什器や文書などの一覧を記した資財帳や土地を記した水陸田目録が作成されました。
官司でも国司の交替の際に正税などの在庫を確認する交替実録帳や班田実施時に作成する班田帳簿目録などが作られました。

平安時代
個人による目録が作成されました。
唐に留学していた「入唐八僧」(最澄、空海、恵運、円行、常暁、宗叡、円仁、円珍)と呼ばれる僧侶達が帰国した際に持ち帰った書物などを記録した将来目録が作成されました。
貴族達は2つの特徴的な目録が作成されました。
まず、現代の図書目録の祖にあたる「書目」が作成されました。
藤原佐世が勅命を奉じて作成した『日本国見在書目録』や藤原通憲(信西)が個人蔵書を記した『通憲入道蔵書目録』などがあります。
また、時代が下ると既存の目録の刊行も行われ、初期のものとしては安達泰盛が高野山にある空海の請来目録を刊行したことが知られています。

江戸時代
出版業の隆盛とともに多数の書籍が刊行されました。
又それらを対象とした目録も刊行されるようになりました。
もう1つは日記や文書を内容ごとに目録を作成して後日に先例を調べる際の参考とするもので、藤原実資の『小右記』には『小記目録』という目録が存在していました。
勿論、財産関係の目録も作成され、所領や財産の生前または死後に譲渡するために作成された譲状・処分状も目録の形式となっていました。
特に財産関係の目録は所領などの相論が発生した場合には、文書の存在の有無が判断の最大の決め手になったことから、こうした目録や公験、絵図その他の文書をまとめて保管し、かつ文書目録
を作成して万が一に備えました。
12世紀に東大寺寛信が文書目録を作成した際の記録が今日も残されています。

中世に入ると荘園領主や公家・武士・僧侶達によって多くの目録が作られるようになりましたのでました。
荘園や所領に関する荘園目録、所領目録、検注の結果を示す検注目録、耕作面積と人員を示す作田目録、年貢の進納状況を示す結解目録などがありました。
江戸時代に江戸幕府や諸藩によって作成された勘定帳や年貢皆済目録もこの流れを汲んだものであります。
更に戦国時代に今川氏が作成した分国法も「今川仮名目録」と呼びました。
これは個々の行政文書の形式で出されていた法令を1つの法典の形式に集積・分類した目録の形式によって公布されたものと考えられたことによります。
寄進の際に出される目録は相手が上位の身分者であったため、相応の儀礼を伴うものとなり、後世の礼法においては転じて相手に進物・贈物をする際の目録の書札礼へと発展していきました。
寄進のための目録は鳥子紙の折紙を用いて端と中奥を折って三等分とし、更に同じ紙をもう一枚礼紙として添えて厚く包む厚礼を用いています。

今日
卒業式や結婚など、記念に物を贈る場合も、何を贈ったかを一覧に記し、式典等ではその目録を手渡すこととされ、進物として実際に金円を送る場合にも婉曲的言換えとして「目録」の語が用いられました。
更に武術・芸能など目には見えない技術を伝授する際にもその内容をまとめた文書を目録と呼びました。
これがそのまま奥義伝授を証明する免許目録としても用いられるようになりました。
蔵書目録も中世・近世を通じて作成され続けました。
明治になると、図書館が設置されるようになり、図書館に置いてある資料のリストである図書目録を作成するための図書館学の技術として資料組織論や図書分類法などが導入されるようになりました。

★賞状の渡し方

賞状盆上に一人分づつ、記念品と賞状を載せます。
一人の人がそのお盆を持って賞状を渡す人の斜め後ろに立ちます。
賞状盆は二枚用意し、新しいものをお出しするときに、使用済みの方を引っ込めます。
賞状をお盆から取って読んだ後、次にお盆から記念品を取って渡しています。
賞状は直接渡しますが額は別に渡します。

★賞状の正しい受け取り方
   
表彰状などを受け取る場合は、まず表彰状などを受け取る相手から1歩から1歩半程度離れた場所に移動します。
相手が賞状をこちらに渡してくるタイミングに合わせて相手に1歩近づきます。
右手または左手を外側に回すようにしながら前に出し表彰状を持ち、その後反対側の手も同じようにしながら前に出し、反対側を掴みます。
その後相手が手を離したら先ほど前に出たのとは逆の手順を踏むように1歩後ろに下がり、手に持っている表彰状などを右脇もしくは左脇に挟み、元の位置に戻ります。

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