知ってて得するマナー集|不祝儀袋の知識館

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不祝儀袋の知識館

不祝儀袋(香典袋) ・ 不祝儀袋上段の書き方 ・ 不祝儀袋下段の書き方 ・ 不祝儀袋(香典袋)中袋の書き方 ・ 不祝儀袋(香典袋)中袋のお札の入れ方 ・ 参列者の葬儀知識  ・ 香典について ・ お焼香について ・ 喪主の葬儀知識  ・  法事・法要とは  ・  法事・法要の流れ ・  墓地について  ・   お彼岸 ・  お盆とは  ・  お盆・初盆に関する各地の行事  ・  天台宗       真言宗 ・  浄土宗  ・  浄土真宗  ・  時宗 ・  臨済宗  ・  曹洞宗  ・  日蓮宗

総数24件 1 2

北海道

【北海盆踊り】北海道の各地域で催される盆踊り。
一般的に一部の「こどもの部」、二部の「大人の部」に分かれており、自治体などが開催する大規模なものの場合は二部ともに、小規模の場合は「こども盆踊り」のみ行われることが多いそうです。
大規模な開催地のものとしては「三笠北海盆おどり(三笠市)」「復活北海盆踊り(岩内町)」「さっぽろ夏まつり北海盆踊り(札幌市大通公園)」などがあります。

東北地方

【黒石よされ】青森県の黒石市の盆踊り。
「エッチャホー、エッチャホー」の掛け声にあわせて踊ります。「日本三大流し踊り」のうちの1つとしても有名です。
【秋田の三大盆踊り】秋田県で毎年8月のお盆時期に開催される三大盆踊り(一日市の盆踊り(八郎潟町)、毛馬内の盆踊り(鹿角市)、西馬音内の盆踊り(羽後町))が有名です。
【舟っこ流し】岩手県盛岡市で藩政時代から伝えられている送り盆の慣習で、お盆に行われる精霊舟・送り火と同じような意味を持ちます。
遺影や故人の戒名などを書いた札を舟に貼り、さらに提灯などで飾って供養するというものです。

関東地方
【佃の盆踊り(つくだのぼんおどり)】東京都中央区で行われる念仏踊りです。櫓太鼓の音に合わせて櫓の周りを踊るもので、東京都の無形文化財に指定されています。
【百八灯流し(ひゃくはっとうながし)】栃木県栃木市で行われる行事で、108本ものろうそくが灯された舟が「巴波川」を往来。百八の煩悩を水に流す、安産のお守りになるといったいわれがあります。

中部地方

【遠州大念仏(えんしゅうだいねんぶつ)】静岡県の浜松市を中心とした市町などで催されるお盆の行事で、初盆を迎えた家をまわり、太鼓の音などに合わせ念仏踊りをします。
浜松市の無形民俗文化財にも指定されています。
【おわら風の盆(おわらかぜのぼん)】富山市八尾町で催される、富山県を代表するお盆の行事。
この祭りが開催される3日間、八尾には約25万人もの見物客が訪れにぎわいます。
また、岐阜の郡上市八幡町で行われる「日本三大盆踊り」のひとつ「郡上おどり」や、福井県・石川県などで行われる迎え火の行事「御招霊(おしょうれい)」なども有名です。

近畿地方

【五山の送り火(ござんのおくりび)】京都で、如意ヶ嶽など五山で催される全国的にも有名な名物行事「かがり火」。
大文字の送り火などと呼ばれる場合もあります。
また、奈良の高円山で行われる「高円山大文字送り火」も同じく有名で、昭和35年から始められたと言われている伝統行事です。

中国地方
【盆燈籠・盆灯篭(ぼんとうろう)】お盆のときに、お墓にお供えする灯篭型の飾りのことで、広島県の安芸地方などでみられる独特な慣習です。

四国

【阿波踊り】徳島県発祥の有名な盆踊りで、400年もの歴史があるそうです。「
四国三大祭り」および「日本三大盆踊り」の一つとされています。最近は全国的にも踊られるようになってきましたが、やはり「徳島市阿波おどり」が国内最大規模です。

九州地方

【精霊流し(しょうろうながし)】長崎の県内各地で催されるお盆の慣習で、盆提灯などを飾った精霊船に故人の精霊を乗せ、魂を弔って送るという伝統行事です。
【チャンココ踊り】五島市で行われる伝統的な念仏踊り。お盆の一大風物詩となっており、「掛」と呼ばれる踊り手が帷子を身にまとい、腰蓑を付けて踊ります。

沖縄
【アンガマ】石垣などに伝えられる儀礼集団芸能で、祖先を表わしているとされる「媼」と「翁」の仮面をつけた2人を先頭として、民家を訪ねて唄や踊りを披露します。
【エイサー】沖縄県の各地でお盆に踊られる、有名な伝統芸能です。ご祖先様の霊を送迎すべく、若者達が囃子と唄に合わせて踊り、通りを練り歩きます。




日本の天台宗は、今から1200年前の延暦25年(806)、伝教大師最澄によって開かれた宗派です。

最澄は神護景雲元年(767)、近江国滋賀郡、琵琶湖西岸の三津(今日の滋賀県坂本)で、三津首百枝(みつのおびとももえ)の長男として誕生。幼名を広野(ひろの)と呼ばれました。
早くからその才能を開花させ、12歳で近江の国分寺行表(ぎょうひょう)の弟子となり、宝亀11年(780)に得度、延暦4年(785)に奈良の東大寺戒壇院で具足戒(250戒)を受け、国に認められた正式な僧侶となられたのです。
受戒後3ヵ月ほどで奈良を離れ、比叡山に分け入り修行の生活に入られました。そして若き僧最澄は【願文】を作り、一乗の教えを体解(たいげ)するまで山を下りないと、み仏に誓いました。
その後、延暦7年(788)に一乗止観院(後の根本中堂)を創建、本尊として薬師如来を刻まれました。
「私たちの住むこの迷いの世界は、ただ苦しみばかりで少しも心安らかなことなどない。(中略)人間として生れることは難しく、また生れたとしてもその身体ははかなく移ろいやすい。」
と、世の中の無常と人間のはかなさを自覚されました。
そして、「因なくして果を得、この処(ことわ)りあることなく、善なくして苦を免がる、この処(ことわ)りあることなし。」と因果の厳しさを述べ、だからこそ生きているときに善いことをする努力を
惜しんではならないと考え、『願文』の中で五つの【心願】をたてられたのです。
天台大師智リの教えを極めたいと願い、桓武天皇の援助を受けて還学生(げんがくしょう)として唐に渡りました。
中国天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)・仏隴寺の行満に天台教学を学び、典籍の書写をします。
その後禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅の教えを受けられ、帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受けられます。
こうして、円密一致といわれる日本天台宗の基礎をつくられたのです。
延暦24年(805)に帰朝してすぐに、高雄山寺で奈良の学僧達に日本で初めて密教の潅頂を授けるなどして、入唐求法の成果を明らかにされました。
当時、「仏に成れるもの、仏に成れないものを区別する」という説もありましたが、最澄は、「すべての人が仏に成れる」と説く
『法華経』に基づいて、日本全土を大乗仏教の国にしていかねばならないとの願いが募り、『法華経』の一乗の精神による人材の養成を目指しました。
こうした最澄の努力と熱意が通じ、延暦25年(806)1月26日、年分度者(国家公認の僧侶)2名認可の官符が発せられました。
このことから、1月26日を天台宗開宗の日としています。
2名の年分度者とは、天台教学を学ぶ者(止観業)1名と、密教を学ぶ者(遮那業)1名でした。
その後最澄は、真俗一貫の大乗菩薩戒こそが真に国を護り人々を幸せにすると考え、弘仁9年(818)から翌年にかけて【山家学生式】(さんげがくしょうしき)と呼ばれる一連の上表を行います。
さらに弘仁11年(820)、『顕戒論』を著わして比叡山に大乗戒独立の允許を求めたのでした。

そして弘仁13年(822)6月4日に最澄は遷化され、その7日後、比叡山独自に大乗菩薩戒を授けることの勅許が下されたのです。
最澄亡き後、一乗止観院は「延暦寺」の寺額を勅賜され、比叡山延暦寺と呼ばれるようになりました。
翌年、弟子の義真が伝法師(後世の天台座主のこと)として後を継ぎます。
第3世座主円仁によって、延暦寺では横川(よかわ)が開かれ、東塔地区も整備されていきます。
また、9年間に亘る入唐求法の成果をもとに、天台教学の中に浄土教を取り入れ、密教を拡充していくなど、その功績は多大なものでした。
円仁の没後ほどなく、貞観8年(866)、最澄には「伝教大師」、円仁には「慈覚大師」という諡号(しごう)を清和天皇より賜りました。
これは日本における初めての大師号であり、最澄・円仁による天台宗の確立が、いかに日本仏教の発展に寄与したかを示すものであります。
また、第5世座主の円珍(智証大師)や五大院安然らによって密教も体系的に整備され、後に東密(真言宗の密教)に対して台密(天台宗の密教)と称されるようになりました。
その後も多くの人材が比叡山で研鑽に励み、学問も修行も充実していきます。
平安時代中期には、第18世座主の良源(慈恵大師)によって諸堂の再建と整備がなされ、論義が盛んに行われて教学の振興がはかられました。
さらに弟子の源信(恵心僧都)によって『往生要集』が著わされ、これが後の日本の浄土教発展の基礎となりました。
また、『法華経』や浄土教信仰などは知識人の間に浸透し、『源氏物語』や『平家物語』に代表される古典文学の底流をなしています。
円仁が中国からもたらし大成した声明は、日本伝統音楽の源流となり、また能・茶道にも天台の仏教思想が深く入り込んでいるといわれています。
平安末期から鎌倉時代はじめにかけては、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった各宗派の開祖たちが比叡山で学びました。
こうして後に比叡山は日本仏教の母山と呼ばれるようになったのです。
時代は下り、盛栄を誇った比叡山延暦寺も織田信長の焼き討ちにあい、一時その宗勢に陰りが見えましたが、江戸時代になり徳川家康の懐刀と云われた天海(慈眼大師)によってその勢力を盛り返し、
特に寛永寺は西の比叡山に対して東叡山と呼ばれ、その影響力を日本全土に及ぼしたのです。


真言宗の歴史
今からおよそ2500年前。お釈迦さまはヒマラヤ山脈の南のふもとルンビニーで誕生されました。
お釈迦さまは、人間の「苦」を克服するために修行を重ね、35歳の時に悟りを開かれ、仏教は始まりました。
お釈迦さまの説法集である経典、教団の戒律集である律典が成立しました。
紀元前2世紀頃には、戒律の実践、物や心の考え方の相違をめぐって2派に分かれました。
紀元前2世紀頃からその後200年にわたって20部派に分裂し、紀元前1世紀頃から大乗経典が登場することになります。
7世紀中期には、密教の根本経典である「 大日経 」「金剛頂経」が成立するなど、八万四千の法門といわれる仏典は、一千年に及ぶ期間において編纂され「 大蔵経 」「一切経」としてまとめ上げられました。
このようにインドに起こった仏教は、時代とともに、伝播の経路により、分派・変化してきました。
中央アジアを経て、中国には前漢の 哀帝代、紀元前2年に、朝鮮には 高句麗に370年代に伝来し、日本へは欽明天皇代の538年に使者を遣わし仏像、仏具、経巻を送ったといわれています。
その後、聖徳太子が仏教の理想に基づく統一国家の建設を目指し、法隆寺を建立しました。
また、奈良時代には唐の都・長安にならい、律令国家にふさわしい平城京を造営。聖武天皇は東大寺建立、国分寺を建立するなど、天平文化の花が開き、桓武天皇による平安遷都、そして弘法大師空海の時代となっていきます。
奈良仏教は、南都六宗と呼ばれる学問仏教、学派というべきものでした。
律令体制の中、寺院は 官寺で、僧尼は 官吏(国家公務員)の様に 僧尼令によって統制されました。
そして、 鎮護国家の為の仏教、いわゆる国家仏教というものでした。
僧侶たちも仏教の教えによって人々を救うというより、難解な理論研究を中心としていました。
しかし、やがて人々のために生きようとする僧侶たちが、山林に 苦修練行して自らを磨き、人々のための仏教が新たに生まれてきます。
平安遷都にともない新しい国づくりを目指す日本では、その原動力となるような、生命力に満ちあふれた新しい教えの出現が求められていました。
このような時代的・社会的な課題をふまえて、真言宗は開かれたのです。
こうした背景の中で、弘法大師は人生の「苦」を乗り越える仏教を求め、唐の国(中国)へ留学します。
その都・長安の 青龍寺で、インド以来の密教の正統を伝える第一人者、 恵果阿闍梨にめぐり合いました。
そして、その教えを始め、経典類、儀礼に関する書や法具など、あますところなく継承します。
つまり、密教の正統な伝承者となって、最新の知識や見聞をも身につけて帰国されました。
その後、密教の教えを組織的に体系化して、時代に即応する真言宗を開宗されたのです。

真言宗の教え

真言宗は、 弘法大師空海によって開かれました。
その教えは、自分自身が本来持っている「 仏心 」を、「今このとき」に呼び起こす 即身成仏に求められます。
それは、自分自身を深く見つめ、「仏のような心で」「仏のように語り」「仏のように行う」という生き方です。
この教えをもとに、人々がともに高めあっていくことで、理想の世界である 密厳仏国土が実現します。
真言宗のご本尊は 大日如来です。
大いなる 智慧 と 慈悲 をもって、すべてのものを照らす根本の仏さまです。
また、仏教に多く存在する仏さますべてを、ひとつも否定することなく、それぞれを大切に考えます。
すべての仏さまは大日如来につながると考えます。
そのため真言宗寺院のご本尊はさまざまです。
真言宗が拠り所とする経典は、『 大日経 』『 金剛頂経 』です。
法要の中で唱えられる主なお経は『 般若理趣経 』『般若心経』『観音経』などです。
曼荼羅 は、宇宙に遍満する生きとし生けるものを仏の姿として、大日如来を中心に描き出したものです。
9世紀の初めに 弘法大師空海により 真言声明が、また中頃には 慈覚大師円仁により 天台声明がそれぞれ中国から伝えられました。

弘法大師の生涯と業績

弘法大師は、奈良時代末の宝亀5年、現在の四国香川県善通寺市で、父 佐伯直田公 、母 玉依 の三男としてお生まれになりました。
幼名を 真魚といいます。
聡明だった真魚は、早くから伯父で桓武天皇の皇子の教育係も務めた 阿刀大足 より漢語や詩・文章を学んでいました。
15歳のとき、阿刀大足に伴われて上京し、さらに学問を学びました。
そして18歳の時、大学の明経科に入り学問を続けますが、官吏養成を目的とした立身出世のための勉強は、空海が求めていたものとは異なっていました。
そして人生の根本問題を解明するためには仏教を学ぶ事が必要だと考えて、大学を中退し仏道に進む決心を固めるのです。
初めに一人の僧侶から 虚空蔵求聞持法という密教の修法を学び、四国や奈良県吉野の山々をめぐり修行を重ねました。
やがて僧侶として名前を空海と改めましたが、空海のこの様な生き方は伯父阿刀大足をはじめとする親族に、忠孝の道に背くと反対されます。
しかし、24歳の空海は『 三教指帰 』を著し、仏教と儒教・道教の優劣を明らかにしました。
仏教の研鑽を続けていた空海は、大和 久米寺で、密教の根本経典『大日経』を目にしたとされています。
しかし、密教の経典は、阿闍梨からの直接の伝授がなければわからない事が多く、入唐求法の機会を待っていました。
31歳のとき、遣唐使船に乗り、入唐する機会を得ました。
延暦23年今の長崎県 田浦を出港します。
ところが暴風雨に遭い難破し、空海の乗り込んだ船は、34日間の漂流の後、幸いにも中国の 福州の付近に漂着しました。
しかし通常は、遣唐使船の訪れない土地ゆえ、上陸を許可されず、遣唐大使の再三にわたる弁明の書簡も問題にされませんでした。
そこで空海が書簡を書したところ、その理路整然とした文章と優れた筆跡により、遣唐使船であると認められます。
その後上陸が許可され、12月に遣唐使一行は首都長安に着く事ができました。
長安到着後、空海は西明寺に住し、精力的に学んでいました。
そして翌年5月末、青龍寺の恵果和尚をたずねました。
恵果和尚は初対面の空海を見るなり「我、先より汝の来る事を知って、相待つ事久し。報命尽きなんとして付法に人なし……」と言い、その年の12月15日に入寂するまで、 正嫡の弟子として、空海に自分の教えのすべてを授けました。
恵果和尚入寂後、空海は「恵果和尚碑文」を書したのち、和尚の教えを守り、33歳の秋に帰国されました。
空海は大同元年九州に到着し、在唐中集めた密教経典・法具などを記した『御請来目録』を朝廷に奉呈し、 筑紫観世音寺に住しました。そして大同4年、朝命により上京し、 高雄山寺 に入住しました。
嵯峨天皇の思し召しによって高雄山寺に入った空海は、ここで真言密教を流布し国家安泰の祈祷を修しました。
そして空海のもとには多くの僧侶が集まり、日本天台宗の宗祖・ 伝教大師 最澄 も高雄山寺に登って灌頂を受法されました。
空海は歴代天皇の篤い帰依を受け、仏教諸宗の中にも真言密教が浸透していきました。
また、一宗の根本道場として東寺を賜り、43歳の弘仁7年には、嵯峨天皇より高野山を賜りました。
45歳の弘仁9年から4年間余りは、高野山を中心に過ごされ、修法や著述などにいそしまれました。
空海は偉大な思想家であると共に、多彩な文化活動をしました。唐で集めた文献や新知識により、社会のため人々のため優れた才能を次々と発揮されたのです。
中でも 満濃池の修築工事では、水圧に対してアーチ型の堤防を築くなど技術指導をされ、現在に至るまで利用されています。
この他にも道を開き、橋を架け、井戸を掘り、温泉の効用を教え、漢方医学の知識を授けたなどの伝承があります。
また文化史上最大の功労者でもあり、『 十住心論 』や『 秘蔵宝鑰 』をはじめ、多くの著作を著しています。
『 文鏡秘府論 』『 文筆眼心抄 』は日本最初の文章学概論であり、文芸評論でありました。
また『 篆隷万象名義 』という日本最初の辞書を作られました。『三教指帰』『 性霊集 』 などは、詩・文ともに、日本の文学史上高い評価を得られています。
中国語や梵語など語学にも造詣が深く、書道では三筆の一人として、美術においては弘仁期以後の仏像・仏画に大きな影響を与え、建築においても同様でした。
承和 元年、数ヶ月後の入定を予期しつつ、国の安寧を祈るため、宮中に道場を開いて真言の秘法を修する事を奏上し、勅許を得ました。
これは今日に至るまで「 後七日御修法 」として連綿と続いており、真言宗最高の法会とされています。
承和2年の正月、御修法の 導師を勤めた空海は、弟子たちに遺言をのこし、3月21日、62歳で高野山において入定されました。
そして86年後の延喜21年、醍醐天皇から弘法大師の 諡号を賜りました。
さらに日本最初の庶民教育機関「 綜芸種智院 」を開き、教育の機会均等を実現したのです。


日本仏教の一宗派
法然上人源空を開祖とし、阿弥陀仏に帰命し、その本願を信じ、称名念仏によって、その浄土への往生を期することを教旨とする。
知恩院(京都市東山区)を総本山とし、増上寺(東京都港区)、金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)(京都市左京区)、知恩寺(京都市左京区)、清浄華院(しょうじょうけいん)(京都市上京区)
善導寺(ぜんどうじ)(福岡県久留米(くるめ)市)、光明寺(こうみょうじ)(神奈川県鎌倉市)、善光寺大本願(長野市)を大本山とする。
《無量寿経》《観無量寿経》《阿弥陀経》の三経(浄土三部経)とインドの世親の著した《浄土論》を正依の経論とし,称名念仏(南無阿弥陀仏と口に称える)によって
阿弥陀仏の極楽浄土へ往生することを期す。唐の善導を高祖,法然を宗祖とする。
1175年(安元1)法然は43歳で専修念仏の確信をえた。まだ教団は形成されていなかったが,このときをもって浄土宗開創とする。

法然

鎌倉初期の僧。浄土宗の開祖。諱(いみな)は源空,勅諡(ちょくし)は円光大師など,通称は黒谷上人。
美作の人。1147年比叡山で源光の門に入り,天台を学んだが,1150年教学などに対する疑問を生じ,西塔黒谷の叡空のもとに隠棲し,法然房源空と称した。
以後20年間修学,善導の《観経疏》によって,称名念仏に専修する悟りに達した。
のち,東山の吉水に草庵を結び,老若貴賤を問わず教化した。
1186年天台の学匠顕真と専修念仏について議論し,女官の出家を契機として南都北嶺の迫害を受け,1207年土佐に配流された。
その思想は《選択本願念仏集》に最もよく表現され,至誠心,深心,回向発願心の三心によって,老若貴賤,修行の多寡など問題なく,阿弥陀仏によって救われるとした。
門下に聖光,源智,証空,親鸞などを出し,日本浄土教の発展の基礎となった。


浄土真宗の歴史
真宗大谷派の宗祖は親鷲聖人です。
親鴛は九歳の時、で比叡山にて仏門に帰依しました。
その後、勉学修行を積んだ親鸞は二十九歳で比叡山を下り、京都の六角堂にて百ヶ日間の参籠を行いました。
そして参籠、九十五日目にして聖徳太子の夢告を得て、法然上人の弟子になりました。
ところが法然の念仏教団(浄土宗)が広まるにつれて、旧教団の人々の反感を買い、承元元年念仏禁制の圧力により法然は讃岐に、親鴛は越後へと流罪に処されました。
越後に流された親鷲は、豪族の三条為教の娘、恵信尼と結婚し子供をもうけ、そしてこの地で積極的に布教活動を行いました。
(当時の仏教界では僧侶は妻帯を禁じられていましたが、師の法然は弟子に対して念仏を称えるうえで妨げにならない限り、妻帯することを許していたのです。)
越後に流された五年の後に流罪を解かれましたが、親鸞は都へは帰らず、東国へ向かい常陸国(現在の茨城県)を拠点として人々に念仏の教えを説きました。
こうしたなかで、元仁元年に「教行信証」を著しました。
(浄土真宗ではこの書を「本典」と崇拝し、この年を「立教開宗」の年としています。)
六十三歳で都に帰った親鷲は京都東山大谷に廟所をかまえ、著述に専念し「教行信証」を完成させたほか「三帖和讃」など多数の著書を残しました。
また、この上人の廟所が後に本願寺と称されるようになったそうです。
親鷲の滅後、室町時代に第八代の蓮如上人は親鴛の教えを簡明に説いた「御文書」(または「御文」)の著述や、朝夕の勤行のための「正信偏・和讃」の刊行に努め、これにより本願寺の教線は
全国に更なる広がりを見せました。
それらの功績から蓮如は浄土真宗中興の祖とまで称されています。
第十一代の顕如の後、東・西両本願寺に分立し現在に至っています。
本願寺はもとは一つだったのです。
東本願寺を総本山とするのが真宗大谷派、西本願寺を総本山とするのが浄土真宗本願寺派です。
それぞれ約一万ヶ寺の末寺を有し日本では最大の信者数を持つ宗派の一つです。
そのほかにも三重県津市の専修寺を本山とする真宗高田派、京都の仏光寺を本山とする真宗仏光寺派などがあります。

浄土真宗 東本願寺と西本願寺の違い 

正式な宗派名は東本願寺は真宗大谷派 本山 真宗本廟

西本願寺は浄土真宗本願寺派です。本山龍谷山本願寺

基本的に、西本願寺は豊臣秀吉が創りました。そして東本願寺を創ったのは徳川家康です。

東西分裂の歴史
戦国時代、信長との石山合戦で一向宗(本願寺派)の本山である石山本願寺(現在の大阪城がある場所にあった)が、武装解除に応じたことで、一向宗は石山本願寺から追われます。
秀吉の治世になり、本願寺派は京都の烏丸で本願寺の再興を許されます。
その後、家康の宗教政策によって、当時、本願寺内で分裂状態が起きていたことを利用し、教如を門主とし、本願寺のすぐ東の土地を与えられ本願寺を分立したのが真宗大谷派の始まりです。
この本願寺の立地関係から、西と東という通称が付けられるようになったのです。
慶長7年教如に七条烏丸に四町四方の寺地を寄進され、東本願寺が分立する。
このため准如が継承した七条堀川の本願寺は、西本願寺と呼ばれるようになる。
本願寺の分立にともない、本願寺教団は東西に分裂する。
初代の親鸞から十一代の門主 「顕如(けんにょ)」までは東西本願寺は同じ宗派でしたが西の十二代目が「准如(じゅんにょ)」、東の十二代目が「教如(きょうにょ)」と
分裂してしまいます。
教義の原点はまったく同じです、なぜなら相続争いで別れる前、つまり十一代目までは同じなのですから。
ただ、分かれてからは、作法や声明、仏具や荘厳はそれぞれ違う流れになって行きます。
「南無阿弥陀仏」が本願寺派では「なもあみだぶつ」に対して大谷派では「なむあみだぶつ」と唱えます。


一遍
鎌倉後期の僧一遍(いっぺん)を開祖とする浄土教の一派。
時宗の名は一般に『阿弥陀経』の「臨命終時」に由来するといわれ、平生を臨命終時と心得て、怠りなく称名念仏することを意味する。
一遍は、同志として彼と同行する個人および集団を「時衆(じしゅう)」とよんでいる
また、一向に(ひたすら)阿弥陀仏の名号を唱えることを肝要としたので一向衆とよばれ、一所不住を本旨としたから遊行衆ともいわれた。
時宗として宗名が確立し一般化するのは、江戸時代に入ってからのことである。
一遍は同行の時衆を伴って一所不住を実践する遊行回国の布教の旅で、「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と記した札を結縁の人々に分け与えて(賦算)念仏を勧めた。
また、時衆は踊念仏を興行して、人々を宗教的法悦に誘い込んだという。
歓喜踊躍した群衆が輪になり、口々に「南無阿弥陀仏」の念仏を唱え、鉦(かね)をたたきながら乱舞するさまは、『天狗草紙』や『野守鏡』に記録されており、その独特な布教方法に人気の
集中したことがわかる。
一遍は在世中つねに「我が化導は一期ばかりぞ」といって、とくに後継者の育成や教団の結成に意を用いることはなかったが、弟子の他阿真教の代になると、各地に道場や寺が建立されて
時衆の止住(定住)が始まり、教団も成立をみて統制のための規則が制定された。
さらに真教のあとの他阿智得は、遊行をやめて寺や道場に止住する事情を、檀家の要請によるやむをえぬことと説明し、しかし「心は遊行に候也」と述べている。
時衆の全盛期は鎌倉後期より室町前期までで、信者の中心は武士であったが、一般庶民の間へも広がりをみせた。
時衆僧は仏僧としての教化活動のほかに、広く茶道、花道、連歌、書画などの分野でも才能を示し、武将の軍営に仕えて戦死者葬送の儀を執行し、あるいは情報提供の任をも務めたという。
時衆の衰微は、室町後期の浄土真宗の急激な膨張とともに始まった。
寺院数411、教会数2、教師数537、信者数5万8950で、時宗教団の規模は他宗のそれと比べて小さいが、神奈川県藤沢市にある総本山の清浄光寺には、室町時代の古式に従う法要が伝えられている。

清浄光寺
時宗教義の系譜をさかのぼれば、開祖一遍の師事した聖達は、法然(源空)門下の西山証空の弟子であったから、聖達を介して浄土宗西山派の教義が一遍に影響を及ぼしているといえる。
西山義では、衆生と阿弥陀仏とは一体不二であるとして、「機法一体」「能所不二」を説くが、これがやがて一遍の教法の根幹をなすのである。
一遍はその教法を「十劫に正覚す衆生界一念に往生す弥陀の国 十と一とは不二にして無生を証し 国と界とは平等にして大会に坐す」との「十一不二偈」に表した。
さらに、彼は、機法一体は「南無阿弥陀仏」の名号において実現されるとし、「六字の名号は一遍の法なり 十界の依正は一遍の体なり 万行離念して一遍を証す 
人中上々の妙好華なり」との「六十万人偈」を記した。
これは熊野権現の神託に基づくので神勅ともいわれている。
ここでは、南無阿弥陀仏の名号こそ衆生救済の絶対力を有するということが強調されている。

踊り念仏
時衆の宗教儀礼である「踊り念仏」は、盆踊りの誕生にきわめて大きな意味を持つ。
@宗教的儀礼として「踊り念仏」を盛んに催したことと、
A開祖一遍をはじめ時衆が全国を漂泊回遊(=「遊行」)する遊行聖として布教につとめことである。
その足跡は陸奥から薩摩まで文字通り全国におよび、結果として踊り念仏が全国の念仏系踊り芸能の母体となったと考えられる。
中世の教団の実態は閉鎖的なものではなく、構成員は「一向宗」とも深く交じわるものであったらしい。
一遍自身「融通念仏勧むる聖」と言われ、融通念仏者であった。
一遍はたくさんの人を集める集客手法を融通念仏から学んだ。
彼が人々に配った「南無阿弥陀仏六十万人決定往生」の札は賦算札(ふさんふだ)と呼ばれるが、この賦算という方式は融通念仏が得意とする集客手法であった。
一遍が取り入れた踊り念仏も、実はすでに融通念仏が芸態としていたものであった
戦国時代、時衆はしばしば戦場に現れて戦死者の供養を行った。
この際に催された大念仏や踊り念仏が、後の盆踊りに発展する契機となったと考えられる。


栄西
臨済宗は、中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つ,鎌倉仏教のひとつです。
中国禅宗の祖とされる達磨から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓山宝林寺の慧能の弟子の1人である南嶽懐譲から、馬祖道一百丈懐海、黄檗希運と続く法系を嗣いだ唐の臨済義玄によって創宗された。
彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。
宋代の大慧宗杲と曹洞宗の宏智正覚の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」がその特徴として認識されるようになる。
日本には栄西以降、中国から各時代に何人もの僧によって持ち込まれ、様々な流派が成立した。
黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。
歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山・鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。

歴史

鎌倉と京都を中心に、武家や皇室の帰依で、次々に創せられた禅刹は、のちに室町幕府の成立とともに、夢窓疎石を開山とする、天竜寺と相国寺を軸に再編され、新しい五山十刹制下に置かれた。
日本臨済宗の主流は、大慧とともに圜悟に次ぐ、宋朝臨済宗の少数派であった虎丘紹隆の系統である。
江戸時代の初め、隠元隆の来朝を期として、従来は五山の外に置かれた大徳寺と妙心寺の新しい動きから、中国・日本の禅の流れを総括し、24流とする説が現れる。
栄西の黄竜宗、道元の曹洞宗、その他を除くと、約20流が虎丘下に属する。
虎丘の宗旨が日本の好みに応じたのであり、白隠の公案禅はその集大成といえる。

教義
日本における臨済宗の発展は、公案禅を踏まえる、宋朝文明の日本化とされる。たとえば、修行と悟りの過程を、牧童が牛を訓練するのに例え、10枚の絵と歌によって説く、2種類の「十牛図頌」がある。
ともに北宋中期のものだが、一はおもに中国で流行し、一は日本だけに受容された。
前者は牛を飼いならし終わって、牧童が牛とともに天に昇り、その姿を消し去るところを理想とし、一個の円相で示す。
後者はこれを第八位に引き下げ、第九位に花咲き水流れる自然を、第十位に布袋を担いで町角に立つ人物を描いて、これを悟りの生きざまとする。
とりわけ、前者の最後の円相を、後者が10枚の絵の背後に置くのは、頓悟(とんご)的な見性体験と、その日常化の思考を示すもので、これが日本民族の好みとなる。京都の禅寺を中心に五山文学や書跡、水墨美術をはじめ、茶の湯、能楽、建築、庭園など、日本で日常生活に即した禅文化の発生をみるのも、理由のないことではない。

天龍寺
禅宗では特定の本尊は立てません。
これは「人間は生まれながらにして仏性をもち、本来みな清浄である」という、お釈迦さまの悟りの体験を自己の内に自覚することを重視しているためです。
そのため本尊にこだわりはなく、仏殿正面には、釈迦如来像または、薬師如来、観音菩薩、文殊菩薩などをまつっているところもあります。
脇には禅宗の始祖達磨大師像、開山祖師の像などがまつられます。
他の宗派はお釈迦さまの説いた経典をよりどころとしていますが、禅宗では、お釈迦さまの悟りの体験を重視するため、特定の経典へのこだわりはありません。
ただ、古くからの習慣として、「大般若波羅蜜多経」「金剛般若経」「般若心経」「法華経」の観世音菩薩普門品などの経典が読まれ、「白隠禅師坐禅和讃」や「宗門安心章」など、また公案に使われる祖師一代の語録などもよく読まれます。
修行僧は師家(指導者)から出された公案にと取り組み、坐禅や作務のあいだも公案に苦しんだ結果、何らかの悟りを得て師家の部屋に行き、その内容を説明(入室参禅)します。
公案自体がおよそ論理的ではない直感の塊だから、修行僧も師家も発言は論理的ではなく激しい問答が繰り返され、時には棒で打たれることもあります。
それが「禅問答」です。
なぜ禅問答を行うかといえば、禅宗は自己を見つめつくす体験であり、悟りの内容は言葉や文字では表現しずらいものです。
修行の段階によっては悟りは何回も訪れるが、そのときの師家は「それ、そこだ。それが悟りだ」と、何かをつかみかけている修行僧に直ちに示してやることができます。
現在の臨済宗は14派に分かれ、各派ごとに本山を有します。
もともと臨済宗では本山を定めず、中国の南宋の五山制度を模した形態が設けあっれていました。
建長3年には鎌倉の建長寺を第一とする五山が、政権が京都に移った建武元年には京都を中心に五山が定められました。
鎌倉派と京都派、武家禅と公家禅など寺格をめぐって対立が激しくなったため、至徳3年に鎌倉・京都の双方に五山制度が定められました。
京都は、南禅寺を別格として、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺。
鎌倉五山は、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺。
さらにそれぞれの下に十刹が定められています。
以来、変遷をへて五山十刹制度は消え、現在に14派本山となっています。
密教寺院が山岳に建てられたのに比べ、禅院は飛鳥時代と同じく平地に整然と配置されました。
禅宗の七堂伽藍は、山門(三門)、仏殿、法堂、僧堂、庫院(庫裏=台所)、東司(西浄=トイレ)、浴室からなります。
台所やトイレ、浴室まで伽藍に含むのは、禅が日常生活すべてを修行の場と考えるからです。
また、その配置は人体にたとえられ、法堂は頭、仏殿は腹、山門は股、僧堂は右手、庫院は左手、東司は右足、浴室は左足を現します。
本来、戒名は仏弟子になった証で、臨済宗では生前に公案を会得し、導師から授かるものです。
院(殿)号は、古くは寺院を建立寄進した貴人につけられた尊称ですが、いまは社会やお寺への貢献と信仰心のあつい人につけられます。
ほかにも軒・庵・斎など住居の名が尊称として用いられます。
道号は、性別や生前の徳、業績をあらわします。
法号は、性格や性別・年齢、そして生前の徳により、禅定門・禅定尼・居士・大姉・信士・信女(成人)・童子・童女(15歳以下)・孩子・孩女(幼児)・嬰子・嬰女(乳児)などがつけられます。
道元が興した曹洞宗も修行の方法は坐禅です。
しかし坐禅に対する心構えがまったく違います。
臨済宗は坐禅を悟りに達する手段と考え、その最中に、公案を思索し工夫する「公案禅」ですが、曹洞宗は坐禅に目的も意味も求めずただ黙々と壁に向かって坐禅する「只管打坐」です。
臨済宗の「看話禅」に対して、曹洞宗は「黙照禅」といいます。
また、曹洞宗は一般民衆の間に、臨済宗は鎌倉幕府の庇護のもと上級武士層にひろまったため「臨済将軍、曹洞土民」といわれました。
栄西は、備中国吉備津宮の神官の子で11歳で天台教学を学び、14歳で比叡山に登りました。28歳で宋に渡り、天台の経典を持ち帰ったが、宋で知った禅をきわめようと47歳で再入宋。
臨済宗黄竜派の虚庵懐敞に師事し、5年目に印可を得て帰国。博多に我が国最初の禅寺聖福寺を開くが、天台宗僧徒の激しい非難をあびて、朝廷から禅停止の命を受ける。


栄西は「興禅護国論」を書いて天台密教の僧として一生を終えるが、著書の最後に禅は再興すると予言して、日本臨済宗の開祖として仰がれます。

一方、道元は、比叡山で天台教学を学び、栄西の門下となって禅を習い、栄西の弟子明全について宋に渡りました。

そこで、曹洞宗の天童如浄に師事し、師の「坐禅中は身心脱落なるべし」という言葉によって悟りを得、日本に帰り、越前の永平寺を拠点に独自の禅風を興しました。
仏壇とは、お寺の本堂を小さくしたようなものですから、本尊をまつることが基本です。
仏壇には位牌も安置しますが、原則として本尊が主で、位牌は従という関係となります。
臨済宗では各派ともほぼ共通して釈迦如来(釈迦牟尼仏)像を本尊としてまつります。


曹洞宗とは
今から八百年ほど前の鎌倉時代、道元禅師(どうげんぜんじ)が正伝の仏法を中国から日本に伝え、瑩山禅師(けいざんぜんじ)が全国に広められ曹洞宗の礎を築かれました。
このお二方を両祖と申し上げ、ご本尊であるお釈迦さまとともに一仏両祖として仰ぎます。
曹洞宗は、お釈迦さまより歴代の祖師方によって相続されてきた「正伝の仏法」を依りどころとする宗派です。
それは坐禅の教えを依りどころにしており、坐禅の実践によって得る身と心のやすらぎが、そのまま「仏の姿」であると自覚することにあります。
そして坐禅の精神による行住坐臥(「行」とは歩くこと、「住」とはとどまること、「坐」とは坐ること、「臥」とは寝ることで、生活すべてを指します)の生活に安住し、お互いに安らかでおだやかな日々を送ることに、人間として生まれてきたこの世に価値を見いだしていこうというのです。

教義
私たちが人間として生を得るということは、仏さまと同じ心、「仏心」を与えられてこの世に生まれたと、道元禅師はおっしゃっておられます。
「仏心」には、自分のいのちを大切にするだけでなく他の人びとや物のいのちも大切にする、他人への思いやりが息づいています。
しかし、私たちはその尊さに気づかずに我がまま勝手の生活をして苦しみや悩みのもとをつくってしまいがちです。
お釈迦さま、道元禅師、瑩山禅師の「み教え」を信じ、その教えに導かれて、毎日の生活の中の行い一つひとつを大切にすることを心がけたならば、身と心が調えられ私たちのなかにある「仏の姿」が
明らかとなります。
日々の生活を意識して行じ、互いに生きる喜びを見いだしていくことが、曹洞宗の目指す生き方といえましょう。

曹洞宗の坐禅

曹洞宗の教えの根幹は坐禅にあります。
それはお釈迦さまが坐禅の修行に精進され、悟りを開かれたことに由来するものです。
禅とは物事の真実の姿、あり方を見極めて、これに正しく対応していく心のはたらきを調えることを指します。
そして坐ることによって身体を安定させ、心を集中させることで身・息・心の調和をはかります。
曹洞宗の坐禅は「只管打坐(しかんたざ)」、ただひたすらに坐るということです。
何か他に目的があってそれを達成する手段として坐禅をするのではありません。
坐禅をする姿そのものが「仏の姿」であり、悟りの姿なのです。
私たちは普段の生活の中で自分勝手な欲望や、物事の表面に振りまわされてしまいがちですが、坐禅においては様々な思惑や欲にとらわれないことが肝心です。
道元禅師はまた、坐禅だけではなくすべての日常行為に坐禅と同じ価値を見いだし、禅の修行として行うことを説かれています。
修行というと日常から離れた何か特別なことのように聞こえますが、毎日の生活の中の行い一つひとつを坐禅と同じ心でつとめ、それを実践し続けることが、私たちにとっての修行なのです。

曹洞宗の歴史

 永平寺
道元禅師の精神は、その後をついだ永平寺二代の孤雲懐弉(こうん えじょう)禅師、永平寺三代で加賀(石川県)の大乗寺(だいじょうじ)を開かれた徹通義介(てっつう ぎかい)禅師を経てその弟子瑩山禅師に受け継がれました。
そして瑩山禅師のもとには、後に能登(石川県)の永光寺(ようこうじ)を継いだ明峰素哲(めいほう そてつ)禅師、總持寺を継いだ峨山韶碩(がさん じょうせき)禅師が出られ、その門下にも多くの
優れた人材が輩出して、日本各地に曹洞禅が広まっていったのす。
特に今一つの中国禅宗の流れをくむ臨済宗(りんざいしゅう)が、幕府や貴族階級など、時の権力者の信仰を得たのに対し、曹洞宗は地方の豪族や一般民衆の帰依を受け、もっぱら地方へと教線を伸ばしていきました。
すなわち、鎌倉末期から室町時代にかけては、臨済宗が鎌倉や京都に最高の寺格を有する5ヶ寺を定めて順位をつけた五山十刹(ごさんじっせつ)の制をしき、五山文学を中心とする禅宗文化を大いに
発展させましたが、曹洞宗はこうした中央の政治権力との結びつきをさけ、地方の民衆の中にとけこんで、民衆の素朴な悩みにこえ、地道な布教活動を続けていきました。
しかし、長い歴史の間には宗門にも色々な乱れや変化が起こりました。
江戸時代になると、徳川幕府による「寺檀(じだん)制度」の確立によって、寺院の組織化と統制が加えられる一方、宗学(しゅうがく)の研究を志す月舟宗胡(げっしゅう そうこ)、卍山道白(まんざん どうはく)、面山瑞方(めんざん ずいほう)等の優れた人材が出て、嗣法(しほう)の乱れを正して道元禅師の示された面授嗣法(めんじゅしほう)の精神に帰るべきことを主張した宗統復古(しゅうとうふっこ)の運動や、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』をはじめとする宗典(しゅうてん)の研究、校訂、出版などが盛んに行われました。
明治維新となり、神道を中心に置こうとする新政府は、神仏を分離して仏教を廃止しようとする廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を断行し、仏教界に大きな打撃を与えました。
しかし仏教界の各宗もよくこの難局に耐え、曹洞宗には大内青巒居士(おおうち せいらん こじ)が出て『修証義(しゅしょうぎ)』の原型を編纂し、その後總持寺の畔上楳仙(あぜがみ ばいせん)
禅師、永平寺の滝谷琢宗(たきや たくしゅう)禅師の校訂を経て宗門(しゅうもん)布教の標準として公布され、在家化導(ざいけけどう)の上に大きな役割を果たしました。
こうしてわが宗門は、今日全国に約1万4千5百の寺院と、520万の檀信徒を擁する大宗団に発展し、未来にむけて更に前進しようとしています。


日蓮                         清澄寺
日蓮宗は日蓮によって開かれました。
日蓮は12歳で天台宗の清澄寺に登り修行していましたが21歳の時に上洛、京都・大阪・奈良等を遊学して回りました。
そして比叡山にて勉学中に末法の世を救うのは「法華経」しかないと悟りました。
32歳で清澄寺に戻った日蓮は、日蓮宗を開宗しましたが「法華経」こそが唯一の教えと説いたため他宗の反感を買い、また、幕府の宗教政策の批判も行ったために伊豆・佐渡へと流罪を受けることに
なりました。
53歳で流罪を赦免され身延山にて布教をするも61歳で病により入滅されたそうです。
日蓮の没後は日昭・日郎・日興・日向・日頂・日持の六僧が中心となって布教を行っていましたが、日興が他の五僧と断絶し富士門流を興す事となる。
富士門流は1900年に日蓮宗からも独立し日蓮正宗となりました。

日蓮正宗
そのため、日昭・日郎・日向・日頂・日持ら五僧の門流が現在の日蓮宗となっています。

日蓮宗の教え
日蓮宗の教えを分かりやすく言えば、題目を唱えれば、即身成仏できるというものです。これを「唱題成仏」といいます。
題目とは『法華経』を表す『妙法蓮華経』に帰依を意味する「南無」をつけた南無妙法蓮華経」のことです。
天台宗に教えられる一念三千は、観法の修行によって体得しなければなりません。
お釈迦さまが亡くなってから1500年以上が経った末法の時代になると、そのような難解なことは、誰もできなくなります。
この天台宗の一念三千を「理の一念三千」と名づけ、 題目を唱えることを「事の一念三千」として、この事の一念三千によって、題目を唱えている人にお釈迦さまの功徳が自然に譲り与えられて成仏できるという教えです。
ただし、単に『妙法蓮華経』に帰依するだけでなく、妙法蓮華経の5字に、すでに果てしない過去に成仏されていたお釈迦さまの修行の功徳と、仏のさとりが備わっていると信じて帰依しなければなりません。
また、体も口も帰依が必要です。中でも特に信心を強調します。
そして題目を唱えれば、悪人でも成仏すると説き、即身成仏すれば、その人のいるところが常寂光土になると教えています。

独創的な日蓮宗
日蓮宗の極めて独創的なところは、教えの根拠が、お釈迦さまの説かれた一切経に存在しないことです。
仏教とは、お釈迦さまが35才で仏のさとりを開かれて、80才でお亡くなりになられるまでの45年間説かれた教えを仏教といいます。
ところがお釈迦さまの説かれたすべてのお経を一切経と言われ、その数は七千余巻といわれます。
それががあまりにも多いために、その理解の違いによって、仏教は色々な宗派に分かれています。
ですからもし仏教の宗派であれば、お釈迦さまの説かれた経典上に根拠がなければなりません。
ところが、お釈迦さまが「題目を唱えれば成仏できる」と説かれたお経は存在せず、それどころか「南無妙法蓮華経」さえも、 一切経に一回も出てこない言葉です。
やはりそれはさすがにまずいという自覚があるためか、「南無妙法蓮華経」という言葉は、『法華経』の寿量品という章の文章の底に秘められていると教えています。
つまり文章上にはどこにもありません。
「文底秘沈(もんていひちん)」などと言い出せば、 何でもありですから、 好きなことを言えるようになってしまいます。
「南無阿弥陀仏」であれば、一切経に何回も説かれているのですが、「南無妙法蓮華経」となると、一切経のどこを探しても存在しないということが日蓮自身も分かっているようです。
このように、日蓮宗の教義は、32才頃の日蓮が新しく考えたまったくの独創によるものです。

日蓮宗の教義
日蓮は、40才を過ぎると、 仏教のあらゆる宗派を否定するようになります。
これを四ヵ格言と言い、「念仏無間(ねんぶつむけん)禅天魔(ぜんてんま)真言亡国(しんごんぼうこく)律国賊(りつこくぞく)」の四つです。
「念仏無間」とは、浄土真宗や浄土宗で勧められる念仏は無間地獄に堕ちるたねまきだ。「禅天魔」とは、禅宗は天の魔物だ。「真言亡国」とは、真言宗は国を亡ぼす。「律国賊」とは、お釈迦さまの戒律を守る律宗は国賊だ、ということです。
これは単に、他の宗派をやめて『法華経』へ帰依するように勧めているのでしょうか?そうではありません。
50才を過ぎて、弘安元年に書いた「上野殿御返事」という手紙には日蓮宗の教学上、非常に重要で、日蓮宗の人なら多くの人が知っている言葉が書かれています。
それが「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」です。
余経も法華経もせんなしとは、法華経も、それ以外のお経も、 助からないということですから、法華経以外の宗派はもちろん、法華経も含めたすべての仏教の宗派を否定して、お釈迦さまの説かれたお経のどこにもない題目を勧めています。
ですから、日蓮宗のお経は、『法華経』のようでいて、『法華経』でもなく、一切経の中に拠り所となるお経は一つもありません。
このように、日蓮宗について知れば知るほど、 仏教から逸脱していることが分かります。
全仏教を否定していながら、仏教といえるのでしょうか?
日蓮宗と日蓮正宗の違い
日蓮宗の本尊は、一応『法華経』に説かれる本仏のお釈迦さまです。それを文字による曼荼羅で表現しています。
ところで日蓮は、もともと「私は上行菩薩の生まれ変わりである」と自分で言っています。
上行菩薩とは、本仏釈尊によって久遠最初に教えを受けて菩提心をおこさせられた、お釈迦さまの弟子です。
ところが日蓮宗の一派である「日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)」では、お釈迦さまではなく、日蓮が本仏だと主張しています。
「本仏」とは、根本の仏ということで、日蓮のほうが、お釈迦さまよりも偉いということです。
このようなことは、日蓮宗の中でも、日蓮正宗と、 日蓮正宗から破門されて分かれた創価学会が言うことです。そのことからこの2つは、日蓮を日蓮大聖人と呼んでいます。
ここまで行くと、なぜ仏教を名乗れるのでしょうか?
もちろんこのような日蓮宗の教えは、お釈迦さまの説かれていないことですから、今日まで題目を唱えて即身成仏できた人は一人もいません。
新興宗教の開祖で仏のさとりを開いたと主張する人は多くありますが、「釈迦の前に仏なし 釈迦の後に仏なし」といわれるように、 自他共に認める仏は、地球上でお釈迦さまただ一人です。
では、お釈迦さまの説かれた『法華経』には、本当はどんなことが教えられているのでしょうか?
『法華経』には、すべての人が救われると説かれているのですが、自力の教えですから、やはり大変な難行を非常に長い期間行う必要があり、「難信難解第一」と説かれています。
ですから『法華経』には 「この法華経は深智の為に説く、浅識はこれを聞いて迷惑して悟らず、一切の声聞及び辟支仏は、この経の中においては、力及ばざるなり」と説かれています。
現代人の私たちよりもはるかにすぐれた声聞や縁覚のような人でも、法華経では力及ばないということです。
また、「無智の人の中に於てはこの経を説くことなかれ、もし利根にして智慧明らかに多聞強識にして仏道を求むる者あらば、かくの如き人の為に説くべし」とも説かれています。
過去世にすでに長期間修行を積んできた智慧利根の人のためのお経なのです。
ですから、『法華経』には、その教えを実践する人が守らなければならない3つの規則として、室・衣・座が説かれています。
「室」とは一切の人々に大慈悲をもって接すること。
「衣」とはどんなに苦しいことでも笑って忍ぶこと。
「座」とは一切のものに対する執着を断つこと。
この3つを守り続けることができるでしょうか?
そのため、『法華経』の嘱累品という章には、「法華経を信じえない者の為には如来の余の深法を教えよ」と説かれています。



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