一遍
鎌倉後期の僧一遍(いっぺん)を開祖とする浄土教の一派。
時宗の名は一般に『阿弥陀経』の「臨命終時」に由来するといわれ、平生を臨命終時と心得て、怠りなく称名念仏することを意味する。
一遍は、同志として彼と同行する個人および集団を「時衆(じしゅう)」とよんでいる
また、一向に(ひたすら)阿弥陀仏の名号を唱えることを肝要としたので一向衆とよばれ、一所不住を本旨としたから遊行衆ともいわれた。
時宗として宗名が確立し一般化するのは、江戸時代に入ってからのことである。
一遍は同行の時衆を伴って一所不住を実践する遊行回国の布教の旅で、「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と記した札を結縁の人々に分け与えて(賦算)念仏を勧めた。
また、時衆は踊念仏を興行して、人々を宗教的法悦に誘い込んだという。
歓喜踊躍した群衆が輪になり、口々に「南無阿弥陀仏」の念仏を唱え、鉦(かね)をたたきながら乱舞するさまは、『天狗草紙』や『野守鏡』に記録されており、その独特な布教方法に人気の
集中したことがわかる。
一遍は在世中つねに「我が化導は一期ばかりぞ」といって、とくに後継者の育成や教団の結成に意を用いることはなかったが、弟子の他阿真教の代になると、各地に道場や寺が建立されて
時衆の止住(定住)が始まり、教団も成立をみて統制のための規則が制定された。
さらに真教のあとの他阿智得は、遊行をやめて寺や道場に止住する事情を、檀家の要請によるやむをえぬことと説明し、しかし「心は遊行に候也」と述べている。
時衆の全盛期は鎌倉後期より室町前期までで、信者の中心は武士であったが、一般庶民の間へも広がりをみせた。
時衆僧は仏僧としての教化活動のほかに、広く茶道、花道、連歌、書画などの分野でも才能を示し、武将の軍営に仕えて戦死者葬送の儀を執行し、あるいは情報提供の任をも務めたという。
時衆の衰微は、室町後期の浄土真宗の急激な膨張とともに始まった。
寺院数411、教会数2、教師数537、信者数5万8950で、時宗教団の規模は他宗のそれと比べて小さいが、神奈川県藤沢市にある総本山の清浄光寺には、室町時代の古式に従う法要が伝えられている。

清浄光寺
時宗教義の系譜をさかのぼれば、開祖一遍の師事した聖達は、法然(源空)門下の西山証空の弟子であったから、聖達を介して浄土宗西山派の教義が一遍に影響を及ぼしているといえる。
西山義では、衆生と阿弥陀仏とは一体不二であるとして、「機法一体」「能所不二」を説くが、これがやがて一遍の教法の根幹をなすのである。
一遍はその教法を「十劫に正覚す衆生界一念に往生す弥陀の国 十と一とは不二にして無生を証し 国と界とは平等にして大会に坐す」との「十一不二偈」に表した。
さらに、彼は、機法一体は「南無阿弥陀仏」の名号において実現されるとし、「六字の名号は一遍の法なり 十界の依正は一遍の体なり 万行離念して一遍を証す 
人中上々の妙好華なり」との「六十万人偈」を記した。
これは熊野権現の神託に基づくので神勅ともいわれている。
ここでは、南無阿弥陀仏の名号こそ衆生救済の絶対力を有するということが強調されている。

踊り念仏
時衆の宗教儀礼である「踊り念仏」は、盆踊りの誕生にきわめて大きな意味を持つ。
@宗教的儀礼として「踊り念仏」を盛んに催したことと、
A開祖一遍をはじめ時衆が全国を漂泊回遊(=「遊行」)する遊行聖として布教につとめことである。
その足跡は陸奥から薩摩まで文字通り全国におよび、結果として踊り念仏が全国の念仏系踊り芸能の母体となったと考えられる。
中世の教団の実態は閉鎖的なものではなく、構成員は「一向宗」とも深く交じわるものであったらしい。
一遍自身「融通念仏勧むる聖」と言われ、融通念仏者であった。
一遍はたくさんの人を集める集客手法を融通念仏から学んだ。
彼が人々に配った「南無阿弥陀仏六十万人決定往生」の札は賦算札(ふさんふだ)と呼ばれるが、この賦算という方式は融通念仏が得意とする集客手法であった。
一遍が取り入れた踊り念仏も、実はすでに融通念仏が芸態としていたものであった
戦国時代、時衆はしばしば戦場に現れて戦死者の供養を行った。
この際に催された大念仏や踊り念仏が、後の盆踊りに発展する契機となったと考えられる。