浄土真宗の歴史
真宗大谷派の宗祖は親鷲聖人です。
親鴛は九歳の時、で比叡山にて仏門に帰依しました。
その後、勉学修行を積んだ親鸞は二十九歳で比叡山を下り、京都の六角堂にて百ヶ日間の参籠を行いました。
そして参籠、九十五日目にして聖徳太子の夢告を得て、法然上人の弟子になりました。
ところが法然の念仏教団(浄土宗)が広まるにつれて、旧教団の人々の反感を買い、承元元年念仏禁制の圧力により法然は讃岐に、親鴛は越後へと流罪に処されました。
越後に流された親鷲は、豪族の三条為教の娘、恵信尼と結婚し子供をもうけ、そしてこの地で積極的に布教活動を行いました。
(当時の仏教界では僧侶は妻帯を禁じられていましたが、師の法然は弟子に対して念仏を称えるうえで妨げにならない限り、妻帯することを許していたのです。)
越後に流された五年の後に流罪を解かれましたが、親鸞は都へは帰らず、東国へ向かい常陸国(現在の茨城県)を拠点として人々に念仏の教えを説きました。
こうしたなかで、元仁元年に「教行信証」を著しました。
(浄土真宗ではこの書を「本典」と崇拝し、この年を「立教開宗」の年としています。)
六十三歳で都に帰った親鷲は京都東山大谷に廟所をかまえ、著述に専念し「教行信証」を完成させたほか「三帖和讃」など多数の著書を残しました。
また、この上人の廟所が後に本願寺と称されるようになったそうです。
親鷲の滅後、室町時代に第八代の蓮如上人は親鴛の教えを簡明に説いた「御文書」(または「御文」)の著述や、朝夕の勤行のための「正信偏・和讃」の刊行に努め、これにより本願寺の教線は
全国に更なる広がりを見せました。
それらの功績から蓮如は浄土真宗中興の祖とまで称されています。
第十一代の顕如の後、東・西両本願寺に分立し現在に至っています。
本願寺はもとは一つだったのです。
東本願寺を総本山とするのが真宗大谷派、西本願寺を総本山とするのが浄土真宗本願寺派です。
それぞれ約一万ヶ寺の末寺を有し日本では最大の信者数を持つ宗派の一つです。
そのほかにも三重県津市の専修寺を本山とする真宗高田派、京都の仏光寺を本山とする真宗仏光寺派などがあります。

浄土真宗 東本願寺と西本願寺の違い 

正式な宗派名は東本願寺は真宗大谷派 本山 真宗本廟

西本願寺は浄土真宗本願寺派です。本山龍谷山本願寺

基本的に、西本願寺は豊臣秀吉が創りました。そして東本願寺を創ったのは徳川家康です。

東西分裂の歴史
戦国時代、信長との石山合戦で一向宗(本願寺派)の本山である石山本願寺(現在の大阪城がある場所にあった)が、武装解除に応じたことで、一向宗は石山本願寺から追われます。
秀吉の治世になり、本願寺派は京都の烏丸で本願寺の再興を許されます。
その後、家康の宗教政策によって、当時、本願寺内で分裂状態が起きていたことを利用し、教如を門主とし、本願寺のすぐ東の土地を与えられ本願寺を分立したのが真宗大谷派の始まりです。
この本願寺の立地関係から、西と東という通称が付けられるようになったのです。
慶長7年教如に七条烏丸に四町四方の寺地を寄進され、東本願寺が分立する。
このため准如が継承した七条堀川の本願寺は、西本願寺と呼ばれるようになる。
本願寺の分立にともない、本願寺教団は東西に分裂する。
初代の親鸞から十一代の門主 「顕如(けんにょ)」までは東西本願寺は同じ宗派でしたが西の十二代目が「准如(じゅんにょ)」、東の十二代目が「教如(きょうにょ)」と
分裂してしまいます。
教義の原点はまったく同じです、なぜなら相続争いで別れる前、つまり十一代目までは同じなのですから。
ただ、分かれてからは、作法や声明、仏具や荘厳はそれぞれ違う流れになって行きます。
「南無阿弥陀仏」が本願寺派では「なもあみだぶつ」に対して大谷派では「なむあみだぶつ」と唱えます。