真言宗の歴史
今からおよそ2500年前。お釈迦さまはヒマラヤ山脈の南のふもとルンビニーで誕生されました。
お釈迦さまは、人間の「苦」を克服するために修行を重ね、35歳の時に悟りを開かれ、仏教は始まりました。
お釈迦さまの説法集である経典、教団の戒律集である律典が成立しました。
紀元前2世紀頃には、戒律の実践、物や心の考え方の相違をめぐって2派に分かれました。
紀元前2世紀頃からその後200年にわたって20部派に分裂し、紀元前1世紀頃から大乗経典が登場することになります。
7世紀中期には、密教の根本経典である「 大日経 」「金剛頂経」が成立するなど、八万四千の法門といわれる仏典は、一千年に及ぶ期間において編纂され「 大蔵経 」「一切経」としてまとめ上げられました。
このようにインドに起こった仏教は、時代とともに、伝播の経路により、分派・変化してきました。
中央アジアを経て、中国には前漢の 哀帝代、紀元前2年に、朝鮮には 高句麗に370年代に伝来し、日本へは欽明天皇代の538年に使者を遣わし仏像、仏具、経巻を送ったといわれています。
その後、聖徳太子が仏教の理想に基づく統一国家の建設を目指し、法隆寺を建立しました。
また、奈良時代には唐の都・長安にならい、律令国家にふさわしい平城京を造営。聖武天皇は東大寺建立、国分寺を建立するなど、天平文化の花が開き、桓武天皇による平安遷都、そして弘法大師空海の時代となっていきます。
奈良仏教は、南都六宗と呼ばれる学問仏教、学派というべきものでした。
律令体制の中、寺院は 官寺で、僧尼は 官吏(国家公務員)の様に 僧尼令によって統制されました。
そして、 鎮護国家の為の仏教、いわゆる国家仏教というものでした。
僧侶たちも仏教の教えによって人々を救うというより、難解な理論研究を中心としていました。
しかし、やがて人々のために生きようとする僧侶たちが、山林に 苦修練行して自らを磨き、人々のための仏教が新たに生まれてきます。
平安遷都にともない新しい国づくりを目指す日本では、その原動力となるような、生命力に満ちあふれた新しい教えの出現が求められていました。
このような時代的・社会的な課題をふまえて、真言宗は開かれたのです。
こうした背景の中で、弘法大師は人生の「苦」を乗り越える仏教を求め、唐の国(中国)へ留学します。
その都・長安の 青龍寺で、インド以来の密教の正統を伝える第一人者、 恵果阿闍梨にめぐり合いました。
そして、その教えを始め、経典類、儀礼に関する書や法具など、あますところなく継承します。
つまり、密教の正統な伝承者となって、最新の知識や見聞をも身につけて帰国されました。
その後、密教の教えを組織的に体系化して、時代に即応する真言宗を開宗されたのです。

真言宗の教え

真言宗は、 弘法大師空海によって開かれました。
その教えは、自分自身が本来持っている「 仏心 」を、「今このとき」に呼び起こす 即身成仏に求められます。
それは、自分自身を深く見つめ、「仏のような心で」「仏のように語り」「仏のように行う」という生き方です。
この教えをもとに、人々がともに高めあっていくことで、理想の世界である 密厳仏国土が実現します。
真言宗のご本尊は 大日如来です。
大いなる 智慧 と 慈悲 をもって、すべてのものを照らす根本の仏さまです。
また、仏教に多く存在する仏さますべてを、ひとつも否定することなく、それぞれを大切に考えます。
すべての仏さまは大日如来につながると考えます。
そのため真言宗寺院のご本尊はさまざまです。
真言宗が拠り所とする経典は、『 大日経 』『 金剛頂経 』です。
法要の中で唱えられる主なお経は『 般若理趣経 』『般若心経』『観音経』などです。
曼荼羅 は、宇宙に遍満する生きとし生けるものを仏の姿として、大日如来を中心に描き出したものです。
9世紀の初めに 弘法大師空海により 真言声明が、また中頃には 慈覚大師円仁により 天台声明がそれぞれ中国から伝えられました。

弘法大師の生涯と業績

弘法大師は、奈良時代末の宝亀5年、現在の四国香川県善通寺市で、父 佐伯直田公 、母 玉依 の三男としてお生まれになりました。
幼名を 真魚といいます。
聡明だった真魚は、早くから伯父で桓武天皇の皇子の教育係も務めた 阿刀大足 より漢語や詩・文章を学んでいました。
15歳のとき、阿刀大足に伴われて上京し、さらに学問を学びました。
そして18歳の時、大学の明経科に入り学問を続けますが、官吏養成を目的とした立身出世のための勉強は、空海が求めていたものとは異なっていました。
そして人生の根本問題を解明するためには仏教を学ぶ事が必要だと考えて、大学を中退し仏道に進む決心を固めるのです。
初めに一人の僧侶から 虚空蔵求聞持法という密教の修法を学び、四国や奈良県吉野の山々をめぐり修行を重ねました。
やがて僧侶として名前を空海と改めましたが、空海のこの様な生き方は伯父阿刀大足をはじめとする親族に、忠孝の道に背くと反対されます。
しかし、24歳の空海は『 三教指帰 』を著し、仏教と儒教・道教の優劣を明らかにしました。
仏教の研鑽を続けていた空海は、大和 久米寺で、密教の根本経典『大日経』を目にしたとされています。
しかし、密教の経典は、阿闍梨からの直接の伝授がなければわからない事が多く、入唐求法の機会を待っていました。
31歳のとき、遣唐使船に乗り、入唐する機会を得ました。
延暦23年今の長崎県 田浦を出港します。
ところが暴風雨に遭い難破し、空海の乗り込んだ船は、34日間の漂流の後、幸いにも中国の 福州の付近に漂着しました。
しかし通常は、遣唐使船の訪れない土地ゆえ、上陸を許可されず、遣唐大使の再三にわたる弁明の書簡も問題にされませんでした。
そこで空海が書簡を書したところ、その理路整然とした文章と優れた筆跡により、遣唐使船であると認められます。
その後上陸が許可され、12月に遣唐使一行は首都長安に着く事ができました。
長安到着後、空海は西明寺に住し、精力的に学んでいました。
そして翌年5月末、青龍寺の恵果和尚をたずねました。
恵果和尚は初対面の空海を見るなり「我、先より汝の来る事を知って、相待つ事久し。報命尽きなんとして付法に人なし……」と言い、その年の12月15日に入寂するまで、 正嫡の弟子として、空海に自分の教えのすべてを授けました。
恵果和尚入寂後、空海は「恵果和尚碑文」を書したのち、和尚の教えを守り、33歳の秋に帰国されました。
空海は大同元年九州に到着し、在唐中集めた密教経典・法具などを記した『御請来目録』を朝廷に奉呈し、 筑紫観世音寺に住しました。そして大同4年、朝命により上京し、 高雄山寺 に入住しました。
嵯峨天皇の思し召しによって高雄山寺に入った空海は、ここで真言密教を流布し国家安泰の祈祷を修しました。
そして空海のもとには多くの僧侶が集まり、日本天台宗の宗祖・ 伝教大師 最澄 も高雄山寺に登って灌頂を受法されました。
空海は歴代天皇の篤い帰依を受け、仏教諸宗の中にも真言密教が浸透していきました。
また、一宗の根本道場として東寺を賜り、43歳の弘仁7年には、嵯峨天皇より高野山を賜りました。
45歳の弘仁9年から4年間余りは、高野山を中心に過ごされ、修法や著述などにいそしまれました。
空海は偉大な思想家であると共に、多彩な文化活動をしました。唐で集めた文献や新知識により、社会のため人々のため優れた才能を次々と発揮されたのです。
中でも 満濃池の修築工事では、水圧に対してアーチ型の堤防を築くなど技術指導をされ、現在に至るまで利用されています。
この他にも道を開き、橋を架け、井戸を掘り、温泉の効用を教え、漢方医学の知識を授けたなどの伝承があります。
また文化史上最大の功労者でもあり、『 十住心論 』や『 秘蔵宝鑰 』をはじめ、多くの著作を著しています。
『 文鏡秘府論 』『 文筆眼心抄 』は日本最初の文章学概論であり、文芸評論でありました。
また『 篆隷万象名義 』という日本最初の辞書を作られました。『三教指帰』『 性霊集 』 などは、詩・文ともに、日本の文学史上高い評価を得られています。
中国語や梵語など語学にも造詣が深く、書道では三筆の一人として、美術においては弘仁期以後の仏像・仏画に大きな影響を与え、建築においても同様でした。
承和 元年、数ヶ月後の入定を予期しつつ、国の安寧を祈るため、宮中に道場を開いて真言の秘法を修する事を奏上し、勅許を得ました。
これは今日に至るまで「 後七日御修法 」として連綿と続いており、真言宗最高の法会とされています。
承和2年の正月、御修法の 導師を勤めた空海は、弟子たちに遺言をのこし、3月21日、62歳で高野山において入定されました。
そして86年後の延喜21年、醍醐天皇から弘法大師の 諡号を賜りました。
さらに日本最初の庶民教育機関「 綜芸種智院 」を開き、教育の機会均等を実現したのです。